目をこらさなくても、黒い布に点々と散る白い繊維はよく見えた。言い換えれば、目に付くのだが――あらためて、朝美は、自身の背後でおどおどと肩を縮めている小さな少年を振り返る。
「こんなもの、もっかい洗えばすぐ落ちるじゃない。かずは何をそんなびくびくしてるのよ」
こんな、着たきり雀同然、何のこだわりもない自分の黒一色のワンピースのつなぎ如きのために、痛める必要のある胸などどこにあるというのだろう。服に対しては極めて冷めきった感情しか抱けない朝美にとって、どうでもいいことでしかないのだけれど。
「その、洗濯失敗しちゃったから・・・・・・怒られるかと思って」
「今度は、白いタオルとかこういうのを一緒に洗う時は、洗濯ネットに入れてくれればいいんじゃない?」
「そうすれば、大丈夫?」
未だ、自分を見上げてくる目の気弱なことにいたたまれなくなって、朝美は答える気力も萎えて適当に相槌を返す。だから、物干し竿から黒いワンピースを抜き去って、脱兎のごとく駆けだした少年を引き留める機会を逃すことになる。
「あっ、ちょっとー!」
家の中でどたどたと駆けずり回るな、と苦言を呈してやりたいところだったが、少年の体があまりに軽いのか大した物音が立つでもなかった。別の意味で、なんだか心配になってしまうような・・・・・・芽生え始めた感情を、朝美は振り払うために頭を数度振りたくる。
「朝美ー、朝美やーい」
この古い家はやたらと勝手口が多く、そのひとつ、台所につながる扉から、父・裕二が庭へ出てきた。
「あ、お父さん」
ごめんなさい、ただいまを言いに行くの後回しにしちゃって――帰るやいなや、少年に手を引かれ庭へ、物干し台の前へと立たされたのだ――そう言って眉を下げる娘の、あまり手をかけなくてもまっすぐなセミロングを維持できる娘の髪をぐしゃりとなぜる。
「それより朝美、お父さんな。昨日あの坊主と2人でいて気になったことがあるんだ」
「気になった?」
朝美と、母。家族の前ではいつも朗らかでいる父なのに、表情が真剣だった。まるで、朝美が1度だけ覗いた、2階の仕事場で従業員を指導している場面に似た・・・・・・。
「昨日の晩飯、気が付いたら俺ばかりばっくばっく食ってて、あの坊主は茶碗の白飯以外ほっとんど口に入れなかったみたいでな」
涼原の家では、おかずは大皿に人数分まとめて盛りつけをする。いつもは裕二と朝美と少年とで食卓を囲んでいたから、彼がおかずに手をつけないことを2人、共に見落としていたのだ。
「昨日はお父さんもいくつかおかず作って出したんで、口に合わなかったのかもしれないけどな」
「まさか。そっちの方がよっぽどないでしょ? 絶対に」
朝美は、自分や母よりも、料理の腕は父に軍配が上がることを知っていた。母はもとよりずぼらな性格が災いして料理は苦手で。そんな母と数年間を2人で過ごしていた朝美もまた、今は自分の料理に自信を持てるような味を出すコツをつかんでいるとは言いがたい・・・・・・。
母には負けずとも、朝美達母子が離れて暮らしている期間自炊生活をしてきた父の味にかなうとは、とても思えなかった。
――お母さんの料理嫌いは今に始まったことじゃないんで、しょうがない。子供の頃から調理実習とか嫌いだったもんなぁ。
裕二はそう、恥じるでも照れるでもなく、自然にのろけてみせる。そんなお母さんでも、父は好きで一緒になったのだ・・・・・・。
思い出すと、胸の奥に薄暗いもやが生まれるのを朝美は知っていた。母の気配の薄い、暗い廊下を歩きながら朝美は頭を振ってそれを追い払う。
少年の行き先が、洗濯機の置いてある洗面所であることはわかっていたのだが、彼が庭から駆けだしてすでに数分。今もそこにいるということはあまり期待していなかったのだが、ありがたいことに少年はそこにいた。しかしその洗面所での彼の行動は朝美の予想の範疇にないものだった。
彼の小さな体にはきっと、洗濯機の底の洗濯物に手が届かないのだろう。朝美にも見覚えのない、おそらく裕二が少年にあてがったと思われる小さな脚立。そこに立ち、すでに水を貯めて回転を始めている洗濯機の中を、少年は真剣な眼差しで見つめていた。
「かず、もしかして洗濯機動いてるの、ずーっと見てたりする?」
「うん・・・・・・」
「そんな見張らなくたって、洗濯機はさぼったりしないって・・・・・・」
見当違いなことを言っている自覚はあったが、いずれにしろ、朝美に少年の行動の意味など理解出来るはずもない。
少年は、洗濯機の中へ向けた目線は外さないまま、こう答えた。
「泡の音、聴いていたんだ。人魚姫って・・・・・・泡になって消えちゃったのって、こんな感じだったのかなって思って・・・・・・」
「人魚姫って・・・・・・」
また唐突な話だわ、と思っても、そう話す彼の声は熱心な眼差しと裏腹に寂しげで、とても茶化すような気にはなれなかった。
「あんたのイメージだと、人魚姫が泡になって消えるの、こんなに激しい感じなわけね。ふぅん・・・・・・」
「君にとっては違う?」
小さな好奇心を宿して、少年はその目を、ようやく朝美へ向けた。たったそれだけのことに、朝美は胸に小さな――それこそひとつの泡のようにささやか、湧いて出たのに気がつかなかった。それでもどこか浮ついた調子で、
「泡ったって色々あるでしょう? ・・・・・・どうせ休みですることもないし、連れてって見せてあげる」
連れていってあげる、とは言っても、制服から着替えてさえいない朝美には出かけるにあたって準備がある。家の中にいても手持ちぶさたでしかない少年は、庭へ出て、さらに土手へ通じる石段を上がって、いつも通りに川を望む。
・・・・・・この川から、捜し求める、魔女の石の気配が確かにする。それは最初っからわかっている。だからといって、そこからどうしたら石へたどり着けるのかまでは、自分にはまるで思いも寄らないのだ。
言うまでもなく、川には水の流れがある。一見浅瀬であるこの石野川だって、流れは決して緩やかでないはずだ。それなのに石の気配は絶えずして、しかしその位置は特定出来るわけでもなく・・・・・・。
要するに、少年は確信を持てないでいるのだ。場所さえわかれば、この季節の川に立ち入るのだって恐ろしくはない、その自信はあるのに。闇雲に川に足を踏み入れたからって、石を手に入れることは出来ないという思いが、ただ川を眺めるしかない日々に彼を滞留させている。
――このままずっといて、あの子やおじさんに甘えて迷惑をかけるなんて、いいわけんだけど・・・・・・。
知らず、ため息を吐いていた。進むことも出来ず、戻る場所もない。八方ふさがりの現状がやるせない。そして、溜まりに溜まっていく焦燥を発散させる術を、少年はまるで心得ていない彼に出来るのは、せめて重たい息を吐き出すくらいしかないのだった。
――あれ・・・・・・?
気力の乏しい目をふと上げると、数メートル先、どこかの中学校の制服らしいものを着た男子と、一瞬だけ目が合った。こんな開けた場所で1人ぼっち、堂々と落ち込んでいる少年だ。奇異の目なら向けられてしかるべきではある。そこまでの自覚はなくても、少年はその違和感には思い当たった。
男子中学生は、少年と目が合った途端に、ぎくりと表情をこわばらせた。次の瞬間には、自然を装えたと思えているのは本人だけ――そんな動作でぷいと目を逸らし、こちらへ向かって歩いていた進行方向さえ反転させて去っていった。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」
「こんなもの、もっかい洗えばすぐ落ちるじゃない。かずは何をそんなびくびくしてるのよ」
こんな、着たきり雀同然、何のこだわりもない自分の黒一色のワンピースのつなぎ如きのために、痛める必要のある胸などどこにあるというのだろう。服に対しては極めて冷めきった感情しか抱けない朝美にとって、どうでもいいことでしかないのだけれど。
「その、洗濯失敗しちゃったから・・・・・・怒られるかと思って」
「今度は、白いタオルとかこういうのを一緒に洗う時は、洗濯ネットに入れてくれればいいんじゃない?」
「そうすれば、大丈夫?」
未だ、自分を見上げてくる目の気弱なことにいたたまれなくなって、朝美は答える気力も萎えて適当に相槌を返す。だから、物干し竿から黒いワンピースを抜き去って、脱兎のごとく駆けだした少年を引き留める機会を逃すことになる。
「あっ、ちょっとー!」
家の中でどたどたと駆けずり回るな、と苦言を呈してやりたいところだったが、少年の体があまりに軽いのか大した物音が立つでもなかった。別の意味で、なんだか心配になってしまうような・・・・・・芽生え始めた感情を、朝美は振り払うために頭を数度振りたくる。
「朝美ー、朝美やーい」
この古い家はやたらと勝手口が多く、そのひとつ、台所につながる扉から、父・裕二が庭へ出てきた。
「あ、お父さん」
ごめんなさい、ただいまを言いに行くの後回しにしちゃって――帰るやいなや、少年に手を引かれ庭へ、物干し台の前へと立たされたのだ――そう言って眉を下げる娘の、あまり手をかけなくてもまっすぐなセミロングを維持できる娘の髪をぐしゃりとなぜる。
「それより朝美、お父さんな。昨日あの坊主と2人でいて気になったことがあるんだ」
「気になった?」
朝美と、母。家族の前ではいつも朗らかでいる父なのに、表情が真剣だった。まるで、朝美が1度だけ覗いた、2階の仕事場で従業員を指導している場面に似た・・・・・・。
「昨日の晩飯、気が付いたら俺ばかりばっくばっく食ってて、あの坊主は茶碗の白飯以外ほっとんど口に入れなかったみたいでな」
涼原の家では、おかずは大皿に人数分まとめて盛りつけをする。いつもは裕二と朝美と少年とで食卓を囲んでいたから、彼がおかずに手をつけないことを2人、共に見落としていたのだ。
「昨日はお父さんもいくつかおかず作って出したんで、口に合わなかったのかもしれないけどな」
「まさか。そっちの方がよっぽどないでしょ? 絶対に」
朝美は、自分や母よりも、料理の腕は父に軍配が上がることを知っていた。母はもとよりずぼらな性格が災いして料理は苦手で。そんな母と数年間を2人で過ごしていた朝美もまた、今は自分の料理に自信を持てるような味を出すコツをつかんでいるとは言いがたい・・・・・・。
母には負けずとも、朝美達母子が離れて暮らしている期間自炊生活をしてきた父の味にかなうとは、とても思えなかった。
――お母さんの料理嫌いは今に始まったことじゃないんで、しょうがない。子供の頃から調理実習とか嫌いだったもんなぁ。
裕二はそう、恥じるでも照れるでもなく、自然にのろけてみせる。そんなお母さんでも、父は好きで一緒になったのだ・・・・・・。
思い出すと、胸の奥に薄暗いもやが生まれるのを朝美は知っていた。母の気配の薄い、暗い廊下を歩きながら朝美は頭を振ってそれを追い払う。
少年の行き先が、洗濯機の置いてある洗面所であることはわかっていたのだが、彼が庭から駆けだしてすでに数分。今もそこにいるということはあまり期待していなかったのだが、ありがたいことに少年はそこにいた。しかしその洗面所での彼の行動は朝美の予想の範疇にないものだった。
彼の小さな体にはきっと、洗濯機の底の洗濯物に手が届かないのだろう。朝美にも見覚えのない、おそらく裕二が少年にあてがったと思われる小さな脚立。そこに立ち、すでに水を貯めて回転を始めている洗濯機の中を、少年は真剣な眼差しで見つめていた。
「かず、もしかして洗濯機動いてるの、ずーっと見てたりする?」
「うん・・・・・・」
「そんな見張らなくたって、洗濯機はさぼったりしないって・・・・・・」
見当違いなことを言っている自覚はあったが、いずれにしろ、朝美に少年の行動の意味など理解出来るはずもない。
少年は、洗濯機の中へ向けた目線は外さないまま、こう答えた。
「泡の音、聴いていたんだ。人魚姫って・・・・・・泡になって消えちゃったのって、こんな感じだったのかなって思って・・・・・・」
「人魚姫って・・・・・・」
また唐突な話だわ、と思っても、そう話す彼の声は熱心な眼差しと裏腹に寂しげで、とても茶化すような気にはなれなかった。
「あんたのイメージだと、人魚姫が泡になって消えるの、こんなに激しい感じなわけね。ふぅん・・・・・・」
「君にとっては違う?」
小さな好奇心を宿して、少年はその目を、ようやく朝美へ向けた。たったそれだけのことに、朝美は胸に小さな――それこそひとつの泡のようにささやか、湧いて出たのに気がつかなかった。それでもどこか浮ついた調子で、
「泡ったって色々あるでしょう? ・・・・・・どうせ休みですることもないし、連れてって見せてあげる」
連れていってあげる、とは言っても、制服から着替えてさえいない朝美には出かけるにあたって準備がある。家の中にいても手持ちぶさたでしかない少年は、庭へ出て、さらに土手へ通じる石段を上がって、いつも通りに川を望む。
・・・・・・この川から、捜し求める、魔女の石の気配が確かにする。それは最初っからわかっている。だからといって、そこからどうしたら石へたどり着けるのかまでは、自分にはまるで思いも寄らないのだ。
言うまでもなく、川には水の流れがある。一見浅瀬であるこの石野川だって、流れは決して緩やかでないはずだ。それなのに石の気配は絶えずして、しかしその位置は特定出来るわけでもなく・・・・・・。
要するに、少年は確信を持てないでいるのだ。場所さえわかれば、この季節の川に立ち入るのだって恐ろしくはない、その自信はあるのに。闇雲に川に足を踏み入れたからって、石を手に入れることは出来ないという思いが、ただ川を眺めるしかない日々に彼を滞留させている。
――このままずっといて、あの子やおじさんに甘えて迷惑をかけるなんて、いいわけんだけど・・・・・・。
知らず、ため息を吐いていた。進むことも出来ず、戻る場所もない。八方ふさがりの現状がやるせない。そして、溜まりに溜まっていく焦燥を発散させる術を、少年はまるで心得ていない彼に出来るのは、せめて重たい息を吐き出すくらいしかないのだった。
――あれ・・・・・・?
気力の乏しい目をふと上げると、数メートル先、どこかの中学校の制服らしいものを着た男子と、一瞬だけ目が合った。こんな開けた場所で1人ぼっち、堂々と落ち込んでいる少年だ。奇異の目なら向けられてしかるべきではある。そこまでの自覚はなくても、少年はその違和感には思い当たった。
男子中学生は、少年と目が合った途端に、ぎくりと表情をこわばらせた。次の瞬間には、自然を装えたと思えているのは本人だけ――そんな動作でぷいと目を逸らし、こちらへ向かって歩いていた進行方向さえ反転させて去っていった。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」