
常日頃から、涼原朝美は夜に強い方ではなかった。学校から帰り、父との2人暮らし――現在は、町中で保護した家出少年との3人ではあるが――に、必要な家事をこなし、宿題など翌日の準備を済ませて。無趣味であるために他にやることも思い浮かばず、所在なくベッドの上に身を投げ出せば、私服のままでもいつの間にか眠りに落ちてしまっている。
田中りょう子に招かれ、彼女の部屋にひと晩泊まることになっても、特別な夜であることに違いはなくともその習慣は抜けるわけではなかった。「お泊まりといえばお決まりでしょ!」などと主張するりょう子は、自分は床に敷いた布団をかぶり、彼女自身のベッドに寝かせた朝美に深夜まで語り続けていた。
普段の朝美なら、そのような身勝手に付き合う義理もないと、自らの体の訴えるままに眠りに就いたことであろう。しかし、何分今日に限っては、朝美はりょう子に借りがある。
どこか放っておけないところのある、不思議な家出少年は、魔女がこの町にばらまいたという石を探していた。全てを集めれば願いが叶うという石。少年に協力することに決めた朝美は、りょう子が持っていた石が必要だった。ひと悶着あったとはいえ、結局りょう子は石を譲ってくれたのだから、朝美とて恩義を感じないほど無情ではないのだった。
だとしても、朝美はついに、睡魔が限界に達しようとしているのを感じないではいられなかった。それに抗うのも、もはやかなわない。
「ねーえ、涼原ちゃんさぁ・・・・・・」
かすんでいく意識の中で、その晩の、最後のりょう子の言葉が届く。
「涼原ちゃんて、好きな男の子、いるの?」
眠ったはずの意識で、朝美ははっきりと、思った。都合の悪い問いのタイミングで、自分に都合良く眠りに入れた幸運に感謝した。
好きな男の子なんて、今のあたしにいるはずがないでしょうに。・・・・・・昔は、確かに、いたのだけど。あの話を誰かに聞かせるなんて、・・・・・・。
あ~あ、せっかくの土曜休みなのに球技大会で登校しなければならないなんて、くっだらないなぁ。グチをこぼす相手もない鈴原麻子は、胸の内で盛大に毒づくことで鬱憤を晴らしながら、人気のない廊下を歩いていた。学校指定としては今時珍しいのかもしれないが、ブルマの体操着から伸びる細い足。頭の後ろで腕を組んでいるため、大きすぎず小さすぎずいたって普通の胸が強調される。同年代の少女と比較するならやや大人びた方で、体型も整っている麻子だったが、そういった感覚に対してはひどく無自覚だった。
「・・・・・・あっれぇ? なになに、ひろとっちもサボリぃ?」
無人と思って開けた、自分の教室のドア。窓際最後尾の彼自身の座席に、クラスメイトの笠位浩人は座っていた。ありきたりなポーズで窓の外を眺めていたようなのだが、この学校の窓は転落防止のために重厚な柵が取り付けられていて景色など見えない。そんな窓を1人きりで凝視しているのに疑問を覚えないでもなかったが、とりあえずはどうでもいいと思うことにした。
浩人は、毎日洗ってはいるものの散髪や日頃の手入れなどが適当なぼさぼさの髪型で、伸びすぎた前髪の合間から覗く目は鋭い。この学校の男子は大半が茶髪に染めている中、浩人は手つかずの黒い地毛であり、根は真面目なのだろうとうかがえる。背丈も高く体格も悪くないため、ぱっと見でどこか威圧感があるのだが、口を開けば意外とごくごく普通の男子である。自分と違って、友達がいないわけではないようだと麻子は思っている。
しかし、ふと気が付くと、いつの間にか仲間の輪から外れ、こうして人目を避けて1人で過ごしていることもよくあった・・・・・・麻子は学校で同級生と口をきくことはめったにしないのだが、浩人には特別感じるところもあり――言うなれば、匂うのだ。自分と同じ、「わけあり」で、同士めいた親近感があるのだった。もちろん、浩人の方にそういった感情は微塵もないこともわかっていたが。
「オレはさぼりじゃねーよ。自分の競技終わってんだから」
「するってーと、うちのクラス1回戦負けじゃない。やれやれだねー」
「鈴原だって、そろそろ出番だろ? 試合ふけるとか、ますますはぶられても知らねーぞ」
「あははー・・・・・・」
麻子としても、別に最初っから、クラスメイトに嫌われるような自分になろうと思っていたわけではなかったのだ。・・・・・・自分の生まれがごくごく平凡で、ありきたりな少女であると疑いもしなかったかつての日々のように、振る舞えるつもりでいた。新しい生活、新しい学校に編入したとしても、今までの自分と何ら変わりがなく。
「ま、あたしすっかりそういう性分になっちゃってんだもん。だからしょうがないよね」
と呟けば、浩人はどこか寂しげな眼差しで麻子を見やる。それが同情であるなら、麻子は浩人には心を開けないと思う。どうやらそうではないらしい・・・・・・というのは、今年、彼と同じクラスになってからの半年ほどですでに理解はしていた。
「なぁ、鈴原。適当にでいいから、オレの話聞いて答えてくれないか」
「なぁに、あらたまっちゃって」
浩人にとって、麻子は特別でも何でもないクラスメイトでしかなく、その彼女へ答えを求めるのは荷が重い。そう思うのだが、どこか懐かしい人の面影のある麻子に、浩人はつい口が滑ったようだった。
「その昔、自分の落ち度で思いっきり傷つけてしまった人がいたとしてさ。もう今更ってくらい時間が経っちまってるんだけど、その人にもう1度会えるとしたら、鈴原は、謝りに行けると思うか?」
無意識の気恥ずかしさから、そう問いかけながら浩人は麻子を見てはいなかった。内容が軽くはない自覚はあっても、彼女に深刻な解答を期待していたわけではなかったから――短くはない時間、沈黙している様子の麻子が気になって彼女の方へ向き直る。
「鈴原?」
「あ、ごめ、ごめん」
放心しているようにも、眉をひそめているようにも見える表情をしていた麻子は、不意を突かれた呼びかけにびくり、大げさな反応を返す。う~ん、などとしきりにうめいた後、答えた。
「・・・・・・おキレイなこと言うなら、悪いことしたら謝らなきゃ、ってことになるんだろうけど。難しいよ。相手が、こっちの顔なんか2度と見たくないとか思ってたり、そのこと忘れてたりしたら・・・・・・会いに行くことで、そういう嫌なこと、思い出させちゃうかもしれないよね」
「・・・・・・だよ、なぁ」
言い訳じみた考えだとわかっていても、浩人はそう思わずにいられなかった。
「それもあるし、どの面下げて、のこのこ会いに行けるんだってこともあるよな・・・・・・」
もし、自分が目の前に姿を現したのなら、彼女はどのような反応を返すのだろう。それ以前に、自分は彼女の前でどんな顔をしていることやら。ーー謝罪したいという思いはもちろんあるが、想像してしまうと、浩人はどうしてもそれを実行する勇気など持てないでいた。
「ところで、何だってあたしなんかに、そんな相談するの?」
「なんとなく、おまえ見てっと、・・・・・・昔傷つけた友達のこと、思い出すような気がしてさ」
へらへらと笑っている腹の内で、人を信用しきれず、孤立している姿。どんな事情があったかなんて詮索するつもりもないけれど、心に深い傷を刻まれているように見える。
それは、あの遠い秋の日、赤く染まる橋の上で、最後に深く傷つけたきり別れてしまった少女のことを浩人に思い出させた。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」