少年は毎日、涼原家の近くの橋の上から川を眺める。それは毎度、石集めに町を歩き通し、疲れて帰ってくる夕方頃で、朝美の下校時刻にちょうど重なる。そのタイミングを有効活用して、朝美は夕食の買い出しに少年を付き合わせるようになった。
「というわけで、石を回収に行くんだけどあんたも付き合う?」
朝美が少年にその報告をしたのは、行きつけのスーパーで野菜を物色している最中だった。
「も、もう見つかっちゃったの? すごいね」
「まぁね。ものは試しに、っていうけどここまでうまい話になるとは思わなかったわ」
学校では何かと朝美について歩きたがるりょう子が相手であるため、朝美はすっかり、まだ見ぬ彼女の石を手に入れた気になっていた。
「でも、回収に行くって、どこへ?」
「石を持ってるクラスメイトの家よ。確か、この町でいっちばん高いマンションの最上階だってよ? おもしろいものが見られるかもねー・・・・・・って、どうしたのよ」
上機嫌に話していた朝美だが、さすがに、いくらか顔を青ざめさせたような少年の変化には気がついた。
「お、おれ、高いところって・・・・・・」
「こわいの? 高所恐怖症とかってやつ?」
「えーと、高さがこわいんじゃないけど・・・・・・まぁ、そういうものかも」
「そ。わかったわ。石はあたしがもらってくるから、明日は父さんのことよろしく」
りょう子は今日、すぐにでも朝美を自宅へ招くつもりでいてそれは叶わなかったものの、逆手に取ってある案を思いついた。明日は金曜日で翌日は学校がない。りょう子が憧れ続けていた、お泊まり会が出来る。
そんなりょう子の思いなど知るよしもない朝美は、「石の他にも、涼原ちゃんに見せたいものがあるんだ。せっかくだから明日の夜、うちにお泊まりしない? 暗くならないと見れないものだから」という誘いに裏があるなど想像さえしなかった。
「おじさん? おれ、何すればいいのかな」
小さな体は、買い物かごを乗せたカートを押して歩く少年の体は小さく、カートに体を隠され顔だけがのぞいている状態だ。それでも首を傾げているしぐさくらいは朝美にもうかがえる。
「何、って言われても」
そう、深い意味を込めて言ったわけでもない。父には、明日の夜はクラスメイトの家へ行くとは、帰ったら報告する。夕食の用意は朝のうちに、朝美が支度をしていくからレンジで温めて食べてもらう。けれど、こんなのは当たり前のことであって、「よろしく」と言ったのはそういう意味ではなくて。
今までの――少年が我が家に来るまでの、父と自分との生活を思い出す。夜、自分が夕食の支度を終えた頃に父はその日の仕事を終え、2人で食卓を囲む。その後、居間で2人はテレビを見たり、何をするでもなく語り合ったりする。朝美が父と過ごせる時間はわずかだから、そうしていた。自分と同じ年頃の少女達は、朝美のように父との時間を欲していないことを知っていたが、それでも朝美は父と一緒にいたかった。
それはまるで、自分が人より親離れが出来ていないようで、後ろめたさを感じもした。
そして朝美は、自分が無意識に告げた「よろしく」に込めた意味をようやく自覚する。
「明日だけは、あんたがあたしの分も、父さんの子供のつもりで、父さんと一緒にいればいいの」
「ええ~・・・・・・ますます、わからなくなったよぅ」
「だって、あたし明日は父さんと一緒の時間がないじゃない。毎日そうしてるのに。なんだかそれって・・・・・・」
寂しいじゃない。思わず口走りそうになった言葉を、はっと飲み込む。
何を言おうとしたんだ、自分は。幼い子供じゃあるまいし、14歳にもなってお父さんといられないのが寂しいなんて、それも自分よりも小さくて頼りない、こんな子供に!
「・・・・・・そうする」
「え?」
羞恥と、自分を見失ってしまいそうな事態に頭を真っ白にして立ち往生していた朝美は、少年がいつの間にかやる気に満ちた表情をしているのにようやく目を向けた。
「明日はおれが、おじさんと一緒にいる。君の代わりになれるわけじゃないけど、1日くらいなら、おれでもおじさんの寂しさを紛らしてあげられるかもしれないから」
それは言葉通りの意味なのか、朝美の思考を察し気を利かせたのか、朝美に判別はつかなかった。
ソファーに並ぶぬいぐるみ達、その真ん中の特にお気に入りのうさぎのぬいぐるみを抱き上げて代わりに座り、好きなお笑い芸人トリオのバラエティー番組を見ていた。りょう子が彼らを好きなのは、仕事で一緒になった父も母も、彼らは本当に仲が良いらしい、と語るせいだった。お笑い芸人でもアイドルグループでも、仕事の上は相棒やメンバーだったりしても、私生活で仲が悪いというのはよくあることらしい。
その話を聞かされていたりょう子は、彼らが一般に知られる程度の人気を得るより以前から、彼らに好意を抱いた。「娘がファンだから」と、父が彼らを家に招いたことがあり、その時に撮った写真はりょう子の宝物だった。
「おりょうちゃん、起きてる?」
ぶしつけに、ノックもせずに母がりょう子の部屋の戸を開ける。これは母があえて癖にした行為である。父が書斎で脚本書きに集中しているところに乱入して、嫌がらせを楽しむために。父はそれを起こるどころか、母のいつまでも無邪気なところに愛らしさを覚えるというのだからどうしようもない。
木庭町で最高層のマンションの最上階であるりょう子の家は、壁の防音も完璧だ。だから、父や母が仕事から帰って家政婦に声かけをしていても、自室にいるりょう子は彼らが部屋のドアを開けるまでわからない。帰宅した母がやって来て、りょう子を呼ぶ声はよく通る高い声なのに。30代の女優としては甲高いに過ぎる彼女の声は、しかし演技になると絶妙に抑えられ、それがある種絶妙な風格を帯びる。
「おかえりなさーい、ママ」
いくら好きな番組といえど、りょう子に執着はない。ぷつり、リモコンでテレビの電源を切り、ぬいぐるみを抱いたまま母の方へ歩み寄る。
「ああ、いいのいいの。お母さん、ご飯食べに帰っただけでまた出ないといけないから」
本来、りょう子と同じ黒髪のストレートヘアーである長い髪を、母は明るい茶色に染めてきつくカールするパーマをかけている。ただでさえ巻いてある髪をさらに、指先でくるくると回しながらぼやく声は、それでも疲れは感じさせない。
「そっかぁ・・・・・・あ、あのね。明日、友達を家に呼んでるの。涼原ちゃんていうんだけど、泊まってもらってもいい?」
「ええっ!? ひさしぶりねー、おりょうちゃんがお友達を呼んでくるのって! もっちろん、好きにしていいわよ」
母は、心から嬉しそうに、手を叩いて喜んでくれた。しかしその直後、まばたきひとつの間だけ、寂しげに顔を曇らせた。娘が友達を家に呼べない理由を、自分達両親に重ねているのだろう。
りょう子は、そうは思わないのだけど。そう、きっと、自分がどこか悪いのだ。
母を見送って自室に戻る。明かりをつける前にふと、ペンダントライトにぶら下がる黄色い石が目にとまって、その気が失せてしまった。光のない部屋でくすんで見えるそれを見上げると、つい、ため息が出てしまう。
何年か前、秋祭りの屋台で手に入れたそれは、朝美の言っていた通り「願いの叶う石」という売り文句だった。
だから、りょう子も願いをかけた。それが叶う片鱗さえ見えないまま時は過ぎ、石はりょう子の中で諦観の象徴にさえなっていた。それでも石を捨てる気になれなかったのは、諦めの中に、ほんのひと粒、りょう子も希望を捨てられなかったからだ。
そして、きっと、その時がついに訪れたのだとりょう子は信じていた。
涼原ちゃんは、あたしの友達になってくれるはず。石を持ち続けたことは、彼女と特別に話せるきっかけとなった。「願いが叶う」というのはそういう意味だったのだろう。
大丈夫、大丈夫・・・・・・信じているはずなのに、何故か武者震いのように、息苦しいまでの胸の鼓動が止まない。
気持ちを落ち着かせるため、りょう子は――いつもそうしているように、ベランダへ出ることにした。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」
「というわけで、石を回収に行くんだけどあんたも付き合う?」
朝美が少年にその報告をしたのは、行きつけのスーパーで野菜を物色している最中だった。
「も、もう見つかっちゃったの? すごいね」
「まぁね。ものは試しに、っていうけどここまでうまい話になるとは思わなかったわ」
学校では何かと朝美について歩きたがるりょう子が相手であるため、朝美はすっかり、まだ見ぬ彼女の石を手に入れた気になっていた。
「でも、回収に行くって、どこへ?」
「石を持ってるクラスメイトの家よ。確か、この町でいっちばん高いマンションの最上階だってよ? おもしろいものが見られるかもねー・・・・・・って、どうしたのよ」
上機嫌に話していた朝美だが、さすがに、いくらか顔を青ざめさせたような少年の変化には気がついた。
「お、おれ、高いところって・・・・・・」
「こわいの? 高所恐怖症とかってやつ?」
「えーと、高さがこわいんじゃないけど・・・・・・まぁ、そういうものかも」
「そ。わかったわ。石はあたしがもらってくるから、明日は父さんのことよろしく」
りょう子は今日、すぐにでも朝美を自宅へ招くつもりでいてそれは叶わなかったものの、逆手に取ってある案を思いついた。明日は金曜日で翌日は学校がない。りょう子が憧れ続けていた、お泊まり会が出来る。
そんなりょう子の思いなど知るよしもない朝美は、「石の他にも、涼原ちゃんに見せたいものがあるんだ。せっかくだから明日の夜、うちにお泊まりしない? 暗くならないと見れないものだから」という誘いに裏があるなど想像さえしなかった。
「おじさん? おれ、何すればいいのかな」
小さな体は、買い物かごを乗せたカートを押して歩く少年の体は小さく、カートに体を隠され顔だけがのぞいている状態だ。それでも首を傾げているしぐさくらいは朝美にもうかがえる。
「何、って言われても」
そう、深い意味を込めて言ったわけでもない。父には、明日の夜はクラスメイトの家へ行くとは、帰ったら報告する。夕食の用意は朝のうちに、朝美が支度をしていくからレンジで温めて食べてもらう。けれど、こんなのは当たり前のことであって、「よろしく」と言ったのはそういう意味ではなくて。
今までの――少年が我が家に来るまでの、父と自分との生活を思い出す。夜、自分が夕食の支度を終えた頃に父はその日の仕事を終え、2人で食卓を囲む。その後、居間で2人はテレビを見たり、何をするでもなく語り合ったりする。朝美が父と過ごせる時間はわずかだから、そうしていた。自分と同じ年頃の少女達は、朝美のように父との時間を欲していないことを知っていたが、それでも朝美は父と一緒にいたかった。
それはまるで、自分が人より親離れが出来ていないようで、後ろめたさを感じもした。
そして朝美は、自分が無意識に告げた「よろしく」に込めた意味をようやく自覚する。
「明日だけは、あんたがあたしの分も、父さんの子供のつもりで、父さんと一緒にいればいいの」
「ええ~・・・・・・ますます、わからなくなったよぅ」
「だって、あたし明日は父さんと一緒の時間がないじゃない。毎日そうしてるのに。なんだかそれって・・・・・・」
寂しいじゃない。思わず口走りそうになった言葉を、はっと飲み込む。
何を言おうとしたんだ、自分は。幼い子供じゃあるまいし、14歳にもなってお父さんといられないのが寂しいなんて、それも自分よりも小さくて頼りない、こんな子供に!
「・・・・・・そうする」
「え?」
羞恥と、自分を見失ってしまいそうな事態に頭を真っ白にして立ち往生していた朝美は、少年がいつの間にかやる気に満ちた表情をしているのにようやく目を向けた。
「明日はおれが、おじさんと一緒にいる。君の代わりになれるわけじゃないけど、1日くらいなら、おれでもおじさんの寂しさを紛らしてあげられるかもしれないから」
それは言葉通りの意味なのか、朝美の思考を察し気を利かせたのか、朝美に判別はつかなかった。
ソファーに並ぶぬいぐるみ達、その真ん中の特にお気に入りのうさぎのぬいぐるみを抱き上げて代わりに座り、好きなお笑い芸人トリオのバラエティー番組を見ていた。りょう子が彼らを好きなのは、仕事で一緒になった父も母も、彼らは本当に仲が良いらしい、と語るせいだった。お笑い芸人でもアイドルグループでも、仕事の上は相棒やメンバーだったりしても、私生活で仲が悪いというのはよくあることらしい。
その話を聞かされていたりょう子は、彼らが一般に知られる程度の人気を得るより以前から、彼らに好意を抱いた。「娘がファンだから」と、父が彼らを家に招いたことがあり、その時に撮った写真はりょう子の宝物だった。
「おりょうちゃん、起きてる?」
ぶしつけに、ノックもせずに母がりょう子の部屋の戸を開ける。これは母があえて癖にした行為である。父が書斎で脚本書きに集中しているところに乱入して、嫌がらせを楽しむために。父はそれを起こるどころか、母のいつまでも無邪気なところに愛らしさを覚えるというのだからどうしようもない。
木庭町で最高層のマンションの最上階であるりょう子の家は、壁の防音も完璧だ。だから、父や母が仕事から帰って家政婦に声かけをしていても、自室にいるりょう子は彼らが部屋のドアを開けるまでわからない。帰宅した母がやって来て、りょう子を呼ぶ声はよく通る高い声なのに。30代の女優としては甲高いに過ぎる彼女の声は、しかし演技になると絶妙に抑えられ、それがある種絶妙な風格を帯びる。
「おかえりなさーい、ママ」
いくら好きな番組といえど、りょう子に執着はない。ぷつり、リモコンでテレビの電源を切り、ぬいぐるみを抱いたまま母の方へ歩み寄る。
「ああ、いいのいいの。お母さん、ご飯食べに帰っただけでまた出ないといけないから」
本来、りょう子と同じ黒髪のストレートヘアーである長い髪を、母は明るい茶色に染めてきつくカールするパーマをかけている。ただでさえ巻いてある髪をさらに、指先でくるくると回しながらぼやく声は、それでも疲れは感じさせない。
「そっかぁ・・・・・・あ、あのね。明日、友達を家に呼んでるの。涼原ちゃんていうんだけど、泊まってもらってもいい?」
「ええっ!? ひさしぶりねー、おりょうちゃんがお友達を呼んでくるのって! もっちろん、好きにしていいわよ」
母は、心から嬉しそうに、手を叩いて喜んでくれた。しかしその直後、まばたきひとつの間だけ、寂しげに顔を曇らせた。娘が友達を家に呼べない理由を、自分達両親に重ねているのだろう。
りょう子は、そうは思わないのだけど。そう、きっと、自分がどこか悪いのだ。
母を見送って自室に戻る。明かりをつける前にふと、ペンダントライトにぶら下がる黄色い石が目にとまって、その気が失せてしまった。光のない部屋でくすんで見えるそれを見上げると、つい、ため息が出てしまう。
何年か前、秋祭りの屋台で手に入れたそれは、朝美の言っていた通り「願いの叶う石」という売り文句だった。
だから、りょう子も願いをかけた。それが叶う片鱗さえ見えないまま時は過ぎ、石はりょう子の中で諦観の象徴にさえなっていた。それでも石を捨てる気になれなかったのは、諦めの中に、ほんのひと粒、りょう子も希望を捨てられなかったからだ。
そして、きっと、その時がついに訪れたのだとりょう子は信じていた。
涼原ちゃんは、あたしの友達になってくれるはず。石を持ち続けたことは、彼女と特別に話せるきっかけとなった。「願いが叶う」というのはそういう意味だったのだろう。
大丈夫、大丈夫・・・・・・信じているはずなのに、何故か武者震いのように、息苦しいまでの胸の鼓動が止まない。
気持ちを落ち着かせるため、りょう子は――いつもそうしているように、ベランダへ出ることにした。
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