
秋の青空は、他の季節のそれよりも透明感がある。その、澄んだ陽射しがいっぱいに射し込む朝、りょう子は目覚めた。
彼女の自室ベッドの横に、ベランダへ繋がる大きな窓がある。人より寝起きの習慣に強い自負のあるりょう子は、すっきりと冴えた頭でカーテンを引き、早朝のベランダへ出る。
町を二分する、横幅広く浅瀬である石野川。下流に立ち並ぶ工場群のシルエットが、木庭町のシンボルだ。鉛くさいにおいを吐き、風に流され町を多い尽くすのも、住民はすっかり慣れてしまい当たり前になってしまった。
夜に明かりを消さないような繁華街がないため、木庭町は夜はきちんと眠りにつく。りょう子がこうして眺める毎朝の景色は、町と目覚めを共にしているような気分になれる。
彼女が孤独を忘れられるのは、ただこの瞬間だけだった。
地上30階の高層マンション、最上階。それが田中りょう子の生まれた家だ――日本全体でみれば大したものではないが――木庭町で最も高い建物であり、ここに住んでいるという事実だけで、裕福さのステータスとみなされる。
地上2、3階が関の山の、一般的家屋に住む家庭からは、太陽近くからの光に満たされるこの部屋はうらやましいのだという。
りょう子は思う。行き帰りの度、長いエレベーターに乗って耳の奥がくらくらするのを味わわされ、天井1枚隔てた下に赤の他人が暮らし、広い庭のないこの家のどこがそんなにいいものだろう。
学校の制服に着替えて今へ出て、おはよー、とひと声かけると、朝食の準備をしながら家政婦の高幡サイ子はにこやかに返してくれる。りょう子の母より20は年上の彼女は、すでに子育てを終え、家政婦としても経験の長いベテランだ。りょう子はもちろん両親も、彼女をおサイさんと呼び、家族同然に信頼していた。
昨夜、母から報されていたテレビ番組がそろそろ始まるのを思いだし、テレビをつける。サイ子が食器を並べる傍ら、テーブルにつき眺めていると、5分ほどで彼女の出番となった。
「本日はゲストに、女優の松澤まゆ子さんがお越しくださいました!」
天気予報のコーナーなのに、自身の主演映画ポスターのフリップを持って、母は満面の作り笑顔を浮かべている。あまりに自然で人当たりの良いそれに、テレビ画面ごしに見るだけの全国の人々は作り笑いと気づいていないかもしれないが、実の娘であるりょう子は知っている。母は朝が苦手で、早朝の仕事は本番直前、マネージャーに当たり散らしてストレスを解消した上でないとテレビカメラの前には立てない。
元から、清純派としては売っていないものの、お茶の間のファンが想像する以上に松澤まゆ子は攻撃的だった。裏でスタッフに当たり散らすことでも業界では知られている。しかし、りょう子にとっても不思議ではあるのだが、母は自分や父、おサイさんといった身内にはいたって優しく、一緒に過ごす時はいつでも笑顔でいてくれる。それだけではなく、芸能界でもごく一部の、本当に気を許した友人には同じように接している。
母は脚本家である父と17歳で電撃結婚をし、その発表の時点ですでにりょう子を身ごもっていた。中学生の娘がいるというのにまだ30歳を過ぎたばかりで、今も美貌は色あせず、むしろ芝居、容姿共に歳相応の円熟を経て魅力は若い頃よりさらに増している、と評判だった。
りょう子の生まれを知った者は、口をそろえてこう言うのだ。日本中の誰もが知っている有名人の子供だなんてすごい。うらやましい。2人共、人より稼ぎがあるからさぞかし良い暮らしが出来るでしょうね。あなたの美しさはお母さん譲りね、と。
りょう子は、いわゆる「空気を読む」ということの不得手な少女だったが、両親を褒める言葉にはそれ本来の意味と、正反対の感情とが同時に込められていることにはなんとなく気がついていた。それを口にする時の表情に、響きに、皮肉や侮蔑がありありとあらわれていた。だからりょう子は、素直な心で両親を愛し尊敬していたけれど、彼らを褒められるのにはいつしか良い感情を抱けなくなっていた。そして、理解も出来なかった。
何が、「うらやましい」のだろうか。
家政婦さんがいつもぴかぴかに磨いてくれるこの部屋に、どこよりも強く太陽の光に満たされたって、多忙の両親はほとんどここにはいない。
たとえ家が平凡だったり貧相だったりしたって、家族がいつも一緒にいられる方が幸せじゃないの? りょう子はそう思うのだった。
「涼原さんそれ、申請してきたの?」
どこにでも目ざとい奴というのはいるもので、涼原朝美の知る限り、そういうのは集団の先頭に立ってしきりの出来たり、そうしたがる女と相場は決まっていた。現在のクラスメイトでもある彼女のことを、朝美は自分と合うタイプではないと直感していたが、今回に限っては都合が良い。
「ええ。生活指導の東堂先生のところでね」
朝美は胸元にぶら下げた、ひし形の、赤い石のペンダントの紐を掴んでぶらぶらと振ってみせる。手のひらの半分大はあるそれは、白いセーラー服の胸にはよく目立っている。
城参海大学付属の中学、高校には変わった校則がある。それは、アクセサリーやおまもりの類は、ひとつだけ、申請さえすれば常時身につけていても校則違反には問われないというものだ。
「あの先生相手によく話が出来たよね。イヤじゃない? あいつと関わるの」
「ていうか、なんて言ってきたの?」
最初の女生徒だけでなく、いつの間にか、普段彼女の取り巻きのようなことをしている者達も朝美を囲んでいた。
せっかく、アクセサリーを承認してくれる制度があるというのにほとんどの女生徒はそれを活用していない。申請には生活指導主任の東堂教諭に直接、アクセサリーを見せに出向かなければならないのだ。東堂は学内でも1、2を争う、厳しく気難しい性格で、学校側の定めた決まり通りに申請希望のアクセサリーを見せに行っても「こんなものが何のために必要なのだ」などとしつこく問い詰めてくる。というのがまことしやかにささやかれていて、実際、東堂を訪ねた朝美もその噂に間違いがなかったのを確認したのだが。
「そんなの、真面目な顔して、なんでもないみたいに『宗教上の理由です』って言えば一発じゃない」
朝美が小学生の頃、同級生の1人が、服の下にいつもお守りをぶら下げていて、理由を聞くとその子供は祖母の信じている神様がどうのという話をしていたのを思い出した。
多少厳しい先生だとしても、宗教関係には深く突っ込みたくはないはずだ。予想通り、東堂は話半分に切り上げて、朝美を解放してくれた。
朝美の話を肴に小さく騒ぎ始めた同級生達に、朝美は本来の目的を切り上げた。
「あんた達さ、これと同じような石、どっかで見たことない? それか、持ってる人知らない?」
「えー? 別に知らないけどー」
「あ、そ。なら別にいいんだけど」
別に別にと適当なやり取りだが、元から親しいわけでもない相手との会話などこんなものだろう。朝美も気にせず、さっさと自分の席に向かう。
魔女が木庭町にちりばめた、複数の石。全て集めると願いが叶う。その石を探している家出少年の世話をする内、彼に協力すると約束した朝美は、さっそく作戦を実行に移した。
少年が最初に手に入れたのは、朝美が譲った赤い石だったが、それを一旦返却させる。朝美はそれを目につくよう持ち歩き、似たような石を持っていると誰かが名乗りをあげるのを期待しているのだ。狭い場所にこれだけの人間がいるのだから、1人くらい、石の所有者が潜んでいてもおかしくはないと朝美は見立てたのだった。
次を読む
前を読む(2話に戻る)
目次に戻る

イリサ「読んでくださりありがとうございました!」