暇さえあれば屋上に常駐しているという少年、湖月雅志に会いに行こうかと思っても、放課後は少しでも早く下校して家の用事を済ませたいと思っている朝美にそのチャンスは限られていた。
給食に出たクロワッサンを口に運び、噛みながらふと見上げた屋上に、あの人影がちらりとかすめてすぐ消えた。また、校舎側から見えない方へ移動したのだろう。
朝美が思うに、昼休みの1時間は長い。給食を30分で済ませると丸ごと半分は残ってしまう。それはもちろん、学校生活を楽しんでいらっしゃる一般的な学生さんにとってはそうでないかもしれないけどね。などと自虐してみたりして。
学校の決まりによって管理されている屋上の鍵は、生徒の一存で勝手に持ち出すことは出来ない。手をかけるとすんなり開いてしまう、鍵のかかっていない屋上への扉に、朝美は1人首を傾げる。
今日は空模様は曇りがちで、湿った風も強く吹き、屋上に出たところで気分良いことなどそうそうなれそうもない。
にも関わらず、彼――湖月雅志はそこにいた。以前、同じ場所で彼を見かけて時と同じポーズで、別の本を読んでいるようだった。
「あれ、本当に来たんだ」
「まぁね。人のことは言えないけど、あんた給食食べるの、いくら何でも早すぎじゃない? 早食いは体に悪いってよく聞くけど」
「口にいれたものはよく噛んで、無駄話をしなければ問題ないよ。教室で話したい人がいるわけでもないし」
「ふぅん。あたしと同じで友達いないのね」
「冗談言っちゃって。僕と違って涼原さんは、田中さんや名吹栄一あたりと仲良さそうにしてるじゃない」
「仲良しこよしかはともかく、話し相手ではあるけど。なんであんたがそんなこと知ってるのよ」
「ここにいると、君達の教室も、校庭で体育の授業やってるのも、よく見えるからさ」
「・・・・・・あんた、一体いつなら教室にいるわけ?」
雅志がどれだけの時間、授業をさぼってこの屋上で過ごしているのか。判断材料は少ないが、得体の知れない予感があった。たとえば、朝美のクラスで、苦手な授業を逃げ出してしまう女生徒・田中りょう子のさぼりを常識的な範囲内とするなら、この男子生徒のさぼりは朝美の推測しやすい範囲を超えているのではないだろうかと。
「どーだろねぇ・・・・・・気が向いた時と、気が進まなくてもどうしても出とかないといけない時、かな」
どうしてもというのが、栄一の言っていた、進級に必要な期末試験の類なのだろうか。総じて、湖月雅志が教室にいる頻度、割合などは、聞かない方がいいような気がしてきた。こういう中学生活を送っているものが、テストになれば学年1位の成績だなんて、深入りすると世の中の不条理を知ってやるせない気持ちになる予測はたやすい。
朝美が彼の左に腰を下ろすと、彼は広げていた本を閉じて右に置き、入れ替わり、そこに置いてあったらしい青い水筒を手に取る。
「はい。前の別れ際に約束してた、お茶」
「別に、本当に用意してくるとは思わなかったけど」
そもそも、雅志が勝手にそう言ったことも、約束の内に入るのだろうかと朝美は思うが、もらえるものはありがたく受け取ることにした。
「元から持ってきてるんだよ。僕、牛乳嫌いでさ。給食の時間は我慢してるけど、牛乳でご飯だのお味噌汁だの、一緒に食べるなんてどうかしてるよねぇ」
受け取ったお茶に口をつけると、香ばしいお煎餅のにおいが嗅覚と味覚にしみてくる。きっと質も悪くないであろう、玄米茶のようだ。ほっとひと息、緩みそうになる表情を器で隠しながら、朝美は言う。
「子供の内から牛乳嫌ってると、背が伸びなくなるわよ」
「それ、迷信じゃないかな。ほら、僕だって別に背は低くないでしょ?」
雅志は立ち上がり、手招きして朝美にもそれを求める。彼の真正面に立ち、至近距離で見上げると、お互いの身長差の感覚はなんとなく掴めた。雅志の背格好は、高すぎず低すぎず、中学2年男子として実に平均的なものであると見当がつく。
「それに僕、お兄ちゃんがいるんだけど、背を伸ばしたいって毎日牛乳飲んでても僕より背が小さいくらいだったしね。背を伸ばしたいって理由で頑張って牛乳飲んでたって報われないこともあるよ」
まぁ、牛乳が骨に良いってのは認めてるから、将来のために必要最低限は摂ってるけどね。朝美が返した水筒のふたで熱いお茶を飲み干してから、そんなことを言ってくる。それはまた、子供だてらにご高尚なお考えだこと、と言ってやると、雅志は気にした風もなく微笑むのだった。
帰り道、必ず通りがかる橋の上。見慣れたその景色の中ですっかり馴染んでしまった小さな人影に――いつも川を眺めていた少年は、今日はそちらへ背を向けて、橋の欄干に体重を預けるように立ちながら、アスファルトの道路を眺めていた。行き交う車を映す目は、しかしその流れを追ってはいない――朝美はこれまたお決まりの言葉を投げる。
「ちょっと。今日はどうしたのよ」
「あ、おかえり」
現在、涼原家に居候する家出少年は、決して晴れやかとはいえない表情に無理矢理浮かべた笑みを朝美へ向ける。彼の表情は実に直球で、隠し事をする才能は皆無である。その事実に彼本人が気がついていないものだから、毎日同じやり取りを繰り返す羽目になって、朝美はため息をつくしかない。別にうんざりだとか、そういう気持ちではないのだけど。
「今日、さ。町のあちこちへ行って、あの石がどこかにないか探してみたんだ」
「それで、『今日も』、それらしいものは見つからなかったっていうのね?」
うん・・・・・・と、落ち込んだ調子で少年が頷くものだから――そりゃあ、手のひらにすっぽり収まってしまうような小さな石を、広い町をあてもなくうろついたからといって簡単に見つかるものではない――などと正論で説く気もそがれるというものである。
「ま、簡単に見つからないからこそ、全て集めたら願いが叶うなんて話も少しだけ信じる気にもなるのよ。落ち込んでたってしょうがないでしょ」
「そうなんだけど、早く見つけないとおれ、ずーっとずっとこのままでいなきゃならないから・・・・・・。お世話になってる、君や、君のお父さんに迷惑がかかるよ」
「誰がそんなことを気にしてるっての。迷惑に思ってたら、その時点であんたなんかとっとと追い出してるんだから。それこそ、無駄なこと考える時間があるなら、目的のものを見つけるのに使ったらいいじゃない」
呆れと、自分でもよくわからない感情にまかせて言い捨てる。いつの間にか少年からそらしてしまっていた目線を彼へ戻すと、小柄な彼は不思議なものを見るような表情を瞳に宿して朝美を見上げていた。
「何よ。変な顔しちゃって」
「ううん。なんでも」
「うそつき」
「うぅ・・・・・・だって、どんな風に言ったらいいか、よくわからなかったから」
「そんな思わせぶりな言い方されたら、余計に気になるでしょうが」
ぶー、などとつぼんだ口から漏れ聞こえそうに、少年は頬を膨らませる。けれどそれはほんの一瞬のことで、
「じゃあ、いつかちゃんと言葉にして言えるように、考えておく。せっかく言葉で話せる人間になったっていうのに、もったいないもんね」
「まー・・・・・・正直そこまですることないっていうか、どうでもいいことだから、期待しないで待ってるわ」
それじゃ、今日はもう帰りましょうか。一方的に告げて、少年を追い抜かして早足に歩き出す。彼が首に巻いている、この残暑の季節にも彼の性別にも似つかわしくない、うさぎのマフラーを揺らしながら、少年は跳ねるように朝美の後をついてきた。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」
給食に出たクロワッサンを口に運び、噛みながらふと見上げた屋上に、あの人影がちらりとかすめてすぐ消えた。また、校舎側から見えない方へ移動したのだろう。
朝美が思うに、昼休みの1時間は長い。給食を30分で済ませると丸ごと半分は残ってしまう。それはもちろん、学校生活を楽しんでいらっしゃる一般的な学生さんにとってはそうでないかもしれないけどね。などと自虐してみたりして。
学校の決まりによって管理されている屋上の鍵は、生徒の一存で勝手に持ち出すことは出来ない。手をかけるとすんなり開いてしまう、鍵のかかっていない屋上への扉に、朝美は1人首を傾げる。
今日は空模様は曇りがちで、湿った風も強く吹き、屋上に出たところで気分良いことなどそうそうなれそうもない。
にも関わらず、彼――湖月雅志はそこにいた。以前、同じ場所で彼を見かけて時と同じポーズで、別の本を読んでいるようだった。
「あれ、本当に来たんだ」
「まぁね。人のことは言えないけど、あんた給食食べるの、いくら何でも早すぎじゃない? 早食いは体に悪いってよく聞くけど」
「口にいれたものはよく噛んで、無駄話をしなければ問題ないよ。教室で話したい人がいるわけでもないし」
「ふぅん。あたしと同じで友達いないのね」
「冗談言っちゃって。僕と違って涼原さんは、田中さんや名吹栄一あたりと仲良さそうにしてるじゃない」
「仲良しこよしかはともかく、話し相手ではあるけど。なんであんたがそんなこと知ってるのよ」
「ここにいると、君達の教室も、校庭で体育の授業やってるのも、よく見えるからさ」
「・・・・・・あんた、一体いつなら教室にいるわけ?」
雅志がどれだけの時間、授業をさぼってこの屋上で過ごしているのか。判断材料は少ないが、得体の知れない予感があった。たとえば、朝美のクラスで、苦手な授業を逃げ出してしまう女生徒・田中りょう子のさぼりを常識的な範囲内とするなら、この男子生徒のさぼりは朝美の推測しやすい範囲を超えているのではないだろうかと。
「どーだろねぇ・・・・・・気が向いた時と、気が進まなくてもどうしても出とかないといけない時、かな」
どうしてもというのが、栄一の言っていた、進級に必要な期末試験の類なのだろうか。総じて、湖月雅志が教室にいる頻度、割合などは、聞かない方がいいような気がしてきた。こういう中学生活を送っているものが、テストになれば学年1位の成績だなんて、深入りすると世の中の不条理を知ってやるせない気持ちになる予測はたやすい。
朝美が彼の左に腰を下ろすと、彼は広げていた本を閉じて右に置き、入れ替わり、そこに置いてあったらしい青い水筒を手に取る。
「はい。前の別れ際に約束してた、お茶」
「別に、本当に用意してくるとは思わなかったけど」
そもそも、雅志が勝手にそう言ったことも、約束の内に入るのだろうかと朝美は思うが、もらえるものはありがたく受け取ることにした。
「元から持ってきてるんだよ。僕、牛乳嫌いでさ。給食の時間は我慢してるけど、牛乳でご飯だのお味噌汁だの、一緒に食べるなんてどうかしてるよねぇ」
受け取ったお茶に口をつけると、香ばしいお煎餅のにおいが嗅覚と味覚にしみてくる。きっと質も悪くないであろう、玄米茶のようだ。ほっとひと息、緩みそうになる表情を器で隠しながら、朝美は言う。
「子供の内から牛乳嫌ってると、背が伸びなくなるわよ」
「それ、迷信じゃないかな。ほら、僕だって別に背は低くないでしょ?」
雅志は立ち上がり、手招きして朝美にもそれを求める。彼の真正面に立ち、至近距離で見上げると、お互いの身長差の感覚はなんとなく掴めた。雅志の背格好は、高すぎず低すぎず、中学2年男子として実に平均的なものであると見当がつく。
「それに僕、お兄ちゃんがいるんだけど、背を伸ばしたいって毎日牛乳飲んでても僕より背が小さいくらいだったしね。背を伸ばしたいって理由で頑張って牛乳飲んでたって報われないこともあるよ」
まぁ、牛乳が骨に良いってのは認めてるから、将来のために必要最低限は摂ってるけどね。朝美が返した水筒のふたで熱いお茶を飲み干してから、そんなことを言ってくる。それはまた、子供だてらにご高尚なお考えだこと、と言ってやると、雅志は気にした風もなく微笑むのだった。
帰り道、必ず通りがかる橋の上。見慣れたその景色の中ですっかり馴染んでしまった小さな人影に――いつも川を眺めていた少年は、今日はそちらへ背を向けて、橋の欄干に体重を預けるように立ちながら、アスファルトの道路を眺めていた。行き交う車を映す目は、しかしその流れを追ってはいない――朝美はこれまたお決まりの言葉を投げる。
「ちょっと。今日はどうしたのよ」
「あ、おかえり」
現在、涼原家に居候する家出少年は、決して晴れやかとはいえない表情に無理矢理浮かべた笑みを朝美へ向ける。彼の表情は実に直球で、隠し事をする才能は皆無である。その事実に彼本人が気がついていないものだから、毎日同じやり取りを繰り返す羽目になって、朝美はため息をつくしかない。別にうんざりだとか、そういう気持ちではないのだけど。
「今日、さ。町のあちこちへ行って、あの石がどこかにないか探してみたんだ」
「それで、『今日も』、それらしいものは見つからなかったっていうのね?」
うん・・・・・・と、落ち込んだ調子で少年が頷くものだから――そりゃあ、手のひらにすっぽり収まってしまうような小さな石を、広い町をあてもなくうろついたからといって簡単に見つかるものではない――などと正論で説く気もそがれるというものである。
「ま、簡単に見つからないからこそ、全て集めたら願いが叶うなんて話も少しだけ信じる気にもなるのよ。落ち込んでたってしょうがないでしょ」
「そうなんだけど、早く見つけないとおれ、ずーっとずっとこのままでいなきゃならないから・・・・・・。お世話になってる、君や、君のお父さんに迷惑がかかるよ」
「誰がそんなことを気にしてるっての。迷惑に思ってたら、その時点であんたなんかとっとと追い出してるんだから。それこそ、無駄なこと考える時間があるなら、目的のものを見つけるのに使ったらいいじゃない」
呆れと、自分でもよくわからない感情にまかせて言い捨てる。いつの間にか少年からそらしてしまっていた目線を彼へ戻すと、小柄な彼は不思議なものを見るような表情を瞳に宿して朝美を見上げていた。
「何よ。変な顔しちゃって」
「ううん。なんでも」
「うそつき」
「うぅ・・・・・・だって、どんな風に言ったらいいか、よくわからなかったから」
「そんな思わせぶりな言い方されたら、余計に気になるでしょうが」
ぶー、などとつぼんだ口から漏れ聞こえそうに、少年は頬を膨らませる。けれどそれはほんの一瞬のことで、
「じゃあ、いつかちゃんと言葉にして言えるように、考えておく。せっかく言葉で話せる人間になったっていうのに、もったいないもんね」
「まー・・・・・・正直そこまですることないっていうか、どうでもいいことだから、期待しないで待ってるわ」
それじゃ、今日はもう帰りましょうか。一方的に告げて、少年を追い抜かして早足に歩き出す。彼が首に巻いている、この残暑の季節にも彼の性別にも似つかわしくない、うさぎのマフラーを揺らしながら、少年は跳ねるように朝美の後をついてきた。
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