男子生徒は、股の上に広げていた重みのある書物を閉じ、傍らに置いてあった何かを朝美へ投げてよこす。
「はい、これ、口止め料ってことで。今日はひさしぶりに夏みたいに暑いし、冷たい内にどうぞ」
至近距離なので取り落とすようなことはなかったが、受け取ったものを確認して、朝美は顔をしかめる。炭酸飲料の缶ジュースだ。・・・・・・根拠はない、ただ、得体の知れない警戒心が、喉の奥からせり上がってくる。
「いらない」
「ぅえ?」
彼は、整った顔立ちが台無しになるような間抜け面をして、胃を潰したような声をあげた。
「こんな安っぽいものでほだそうなんて、あたしも舐められたものだわ。あんたこそ、さっさと飲まないと、せっかく冷えてるのに温まっちゃうわよ」
彼自身も言ったように、今日は暑い。秋はもうじき訪れるだろうが、今はまだ残暑の日差しが厳しい。そも、いくら授業をさぼるためといえ、このように暑苦しい場所にずーっといるなんて朝美には考えられないことだった。
朝美のある程度想像した通り、彼は苦笑いのまま、戻ってきた缶ジュースへ目線を落とす。やがて、すっくと立ち上がり、腕を伸ばし可能な限り我が身から遠ざける。朝美が奇異の目で見守る中、プルタブを起こす。
炭酸の泡は、垂直に飛び出したうえ、次にはぐるり円を描くように、見事な暴れぶりを見せつけた。缶を手に持つ彼はかろうじて、それが着衣につかないよう避けるのには成功し、安堵の息をつく。
「あ~あ、やっぱりか」
「何がやっぱり、よ。こんなものを人に開けさせようとするとか、顔に似合わずいい根性してるじゃない」
「僕じゃないよ。これ、クラスの何とかって、いつも僕を目の敵にしてるやな奴の差し入れでさ」
何が、僕じゃない、なんだか。この場で肝心なのは、缶コーラの暴発を予期しておきながら、それを朝美に開けさせようとしたことではないか。
「何とかって、クラスメイトなのに覚えてないわけ?」
朝美はこの学校に編入して、まだひと月足らずの新顔ではあるが、クラスメイトの顔と名前くらいはすでに一致する。
「記憶の容量だって無限じゃないんだからさ、無駄なことを覚えるのってもったいないじゃないか」
「あんた・・・・・・きれいな顔して、言うことえげつないわね」
朝美も、言うだけなら別に対した発言ではないと思う。空恐ろしいのは、彼が、そう言いながら表情にいやみも悪意も皮肉もにおわせないせいだろう。本当に、何てことはない真理を軽く口にするような調子なのだ。
「うん。僕、性格が悪いから。人並みにはね」
「人並み、ね」
「そ、人並み。極悪人とまでは言わないけど、別にいい人ってわけでもないっていう」
自分で卑下しながら、けらけらと笑う。
「君、確か3組の涼原さんだっけ」
「よく知ってるわね。自分のクラスメイトの名前も知らないくせに、よそのクラスのあたしのことなんて」
「転校してきて、全校朝礼で挨拶をしてたでしょ。それで、覚えておいたんだ。無駄にはならないだろうと思って」
「・・・・・・あんた、もしかして。これって女を引っかける常套句だったりする?」
「まーっさか! そんなつもりはないよ、『僕には』ね」
聞けば聞く程に、含みを感じてしまうのは自分の感覚が正常なのか異常なのか、わからなくなってきた。
「で、あたしの名前をご存じっていうのは光栄だけど、あんたの名前は?」
「僕は、1組の湖月雅志(こづき まさし)だよ」
1組、といえば、特別進学クラスだったか。まぁ、行動はともかく、どこか知性を感じさせる語り口であることには、朝美は納得した。
「覚えておくわ。いざって時、学校側へさぼりを通報するのに名前も必要だろうから」
「まったまたぁ。君、たぶんそういう性格じゃないでしょ? 人の、ささやかな平穏の場所を取り上げるようなこと」
「どうかしらね。あたしも、人並みに性格は悪いものだから」
さて、いい加減、調理実習を逃げ出したクラスメイトを回収して、授業に戻るとするか。適度な暇つぶしを満喫した朝美は、どこか楽しげな気持ちで、別れを告げる。
「気が向いたら、また、あんたの平穏を邪魔しにくるかもしれないわ」
「そっかー。それなら今度こそ、お客様に出すのに、ちゃんとしたお茶でも用意しておくよ」
雅志の方も、にこやかに、朝美を見送った。
授業中も休み時間も、この学校の保健室は賑やかだ。入れ替わり立ち替わり、学校生活に馴染めない生徒が、駆け込み寺にしているのだから。
保健室の扉は閉まっており、一応の礼儀として、朝美はガラス窓の部分をノックした。返事がないのは、漏れ聞こえる応酬から予測はしていたから、構わず中へ入ることにする。
「あーっ、涼原ちゃん! 迎えに来てくれたのぉっ!?」
彼女ーー田中りょう子の座っていた丸イスは、感情の勢いのまま立ち上がったせいで吹き飛ばされた。あーっ、まったくあんたって子はっ、などと、保健医の左内先生が金切り声をあげる。
りょう子は、見目愛らしい少女だった。当校には髪の長さの規制がないから、黒い髪を腰の長さにまで伸ばして、矯正をかけたストレートパーマは白い光の輪を跳ね返して、艶やかに輝いている。反して、やけに短めに切った前髪は、美しい顔立ちと潤んだ瞳を印象的に見せている。
これは、有名な女優として知られる、彼女の母親の特徴をそのまま同じくしたものだった。さらに言えば、父親の方も著名な作家でーー知られている、というのは良い意味でばかりとは限らないが、それはまた別の話だーー彼と女優の結婚話からして世間を騒然とさせ、その家庭の証としてりょう子は生まれた。
りょう子が同級生の、女生徒を限定に疎まれるのには、そういった理由を含めて複合的な確執がある。本人の見た目もかわいらしく、性格もいたって素直で、本人に自覚はないが男子生徒からの人気は大いにある。芸能活動をしている有名人の子供というブランド力まであるものだから、同じ女としてやっかみがあるのだろう。
その事実を知った時、朝美はあまりの馬鹿らしさに、元よりなれ合うつもりはなかったといえ、クラスメイトの女子と交友を持とうという気持ちは消え失せたのだった。
「よかったわ、涼原さん。うるさいのを回収にきてくれて」
「うぅ、左内ちゃん先生、ひどいぃ。あたしのこと嫌いなの?」
「嫌いとかそーいう問題ではない。愚痴するだけで実際に行動するでもない泣き言を、延々聞かされるのがしんどいだけでしょうが」
左内先生は、定年退職を数年後に控えた、ベテランの女性保健医だ。
彼女は温厚で、心の弱い生徒を甘やかす・・・・・・なんてタイプでは決してない。言うべきことはきちんと言うし、かろうじて登校するものの授業に出られない「保健室登校」の生徒を、無条件に受け入れ匿うようなことはしない。それでも、そういった生徒からもそうでない生徒からをも人気を集めるのは、立場上、どんな時にでも中立からの意見を述べてくれるからだろうか。
「あ、そーいや、どーでもいいけど栄一は? 先にこっちに来てるはずなのに」
「ああ、あの子なら、そこの個室で寝ているわ。どうせ田中さんはあなたが来ないと動きゃしないって言ってね」
りょう子もそうだが、栄一は栄一でどーしようもない。同級生を相手にまるでおもりでもしているようで、朝美はどうにも納得しにくかった。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」
「はい、これ、口止め料ってことで。今日はひさしぶりに夏みたいに暑いし、冷たい内にどうぞ」
至近距離なので取り落とすようなことはなかったが、受け取ったものを確認して、朝美は顔をしかめる。炭酸飲料の缶ジュースだ。・・・・・・根拠はない、ただ、得体の知れない警戒心が、喉の奥からせり上がってくる。
「いらない」
「ぅえ?」
彼は、整った顔立ちが台無しになるような間抜け面をして、胃を潰したような声をあげた。
「こんな安っぽいものでほだそうなんて、あたしも舐められたものだわ。あんたこそ、さっさと飲まないと、せっかく冷えてるのに温まっちゃうわよ」
彼自身も言ったように、今日は暑い。秋はもうじき訪れるだろうが、今はまだ残暑の日差しが厳しい。そも、いくら授業をさぼるためといえ、このように暑苦しい場所にずーっといるなんて朝美には考えられないことだった。
朝美のある程度想像した通り、彼は苦笑いのまま、戻ってきた缶ジュースへ目線を落とす。やがて、すっくと立ち上がり、腕を伸ばし可能な限り我が身から遠ざける。朝美が奇異の目で見守る中、プルタブを起こす。
炭酸の泡は、垂直に飛び出したうえ、次にはぐるり円を描くように、見事な暴れぶりを見せつけた。缶を手に持つ彼はかろうじて、それが着衣につかないよう避けるのには成功し、安堵の息をつく。
「あ~あ、やっぱりか」
「何がやっぱり、よ。こんなものを人に開けさせようとするとか、顔に似合わずいい根性してるじゃない」
「僕じゃないよ。これ、クラスの何とかって、いつも僕を目の敵にしてるやな奴の差し入れでさ」
何が、僕じゃない、なんだか。この場で肝心なのは、缶コーラの暴発を予期しておきながら、それを朝美に開けさせようとしたことではないか。
「何とかって、クラスメイトなのに覚えてないわけ?」
朝美はこの学校に編入して、まだひと月足らずの新顔ではあるが、クラスメイトの顔と名前くらいはすでに一致する。
「記憶の容量だって無限じゃないんだからさ、無駄なことを覚えるのってもったいないじゃないか」
「あんた・・・・・・きれいな顔して、言うことえげつないわね」
朝美も、言うだけなら別に対した発言ではないと思う。空恐ろしいのは、彼が、そう言いながら表情にいやみも悪意も皮肉もにおわせないせいだろう。本当に、何てことはない真理を軽く口にするような調子なのだ。
「うん。僕、性格が悪いから。人並みにはね」
「人並み、ね」
「そ、人並み。極悪人とまでは言わないけど、別にいい人ってわけでもないっていう」
自分で卑下しながら、けらけらと笑う。
「君、確か3組の涼原さんだっけ」
「よく知ってるわね。自分のクラスメイトの名前も知らないくせに、よそのクラスのあたしのことなんて」
「転校してきて、全校朝礼で挨拶をしてたでしょ。それで、覚えておいたんだ。無駄にはならないだろうと思って」
「・・・・・・あんた、もしかして。これって女を引っかける常套句だったりする?」
「まーっさか! そんなつもりはないよ、『僕には』ね」
聞けば聞く程に、含みを感じてしまうのは自分の感覚が正常なのか異常なのか、わからなくなってきた。
「で、あたしの名前をご存じっていうのは光栄だけど、あんたの名前は?」
「僕は、1組の湖月雅志(こづき まさし)だよ」
1組、といえば、特別進学クラスだったか。まぁ、行動はともかく、どこか知性を感じさせる語り口であることには、朝美は納得した。
「覚えておくわ。いざって時、学校側へさぼりを通報するのに名前も必要だろうから」
「まったまたぁ。君、たぶんそういう性格じゃないでしょ? 人の、ささやかな平穏の場所を取り上げるようなこと」
「どうかしらね。あたしも、人並みに性格は悪いものだから」
さて、いい加減、調理実習を逃げ出したクラスメイトを回収して、授業に戻るとするか。適度な暇つぶしを満喫した朝美は、どこか楽しげな気持ちで、別れを告げる。
「気が向いたら、また、あんたの平穏を邪魔しにくるかもしれないわ」
「そっかー。それなら今度こそ、お客様に出すのに、ちゃんとしたお茶でも用意しておくよ」
雅志の方も、にこやかに、朝美を見送った。
授業中も休み時間も、この学校の保健室は賑やかだ。入れ替わり立ち替わり、学校生活に馴染めない生徒が、駆け込み寺にしているのだから。
保健室の扉は閉まっており、一応の礼儀として、朝美はガラス窓の部分をノックした。返事がないのは、漏れ聞こえる応酬から予測はしていたから、構わず中へ入ることにする。
「あーっ、涼原ちゃん! 迎えに来てくれたのぉっ!?」
彼女ーー田中りょう子の座っていた丸イスは、感情の勢いのまま立ち上がったせいで吹き飛ばされた。あーっ、まったくあんたって子はっ、などと、保健医の左内先生が金切り声をあげる。
りょう子は、見目愛らしい少女だった。当校には髪の長さの規制がないから、黒い髪を腰の長さにまで伸ばして、矯正をかけたストレートパーマは白い光の輪を跳ね返して、艶やかに輝いている。反して、やけに短めに切った前髪は、美しい顔立ちと潤んだ瞳を印象的に見せている。
これは、有名な女優として知られる、彼女の母親の特徴をそのまま同じくしたものだった。さらに言えば、父親の方も著名な作家でーー知られている、というのは良い意味でばかりとは限らないが、それはまた別の話だーー彼と女優の結婚話からして世間を騒然とさせ、その家庭の証としてりょう子は生まれた。
りょう子が同級生の、女生徒を限定に疎まれるのには、そういった理由を含めて複合的な確執がある。本人の見た目もかわいらしく、性格もいたって素直で、本人に自覚はないが男子生徒からの人気は大いにある。芸能活動をしている有名人の子供というブランド力まであるものだから、同じ女としてやっかみがあるのだろう。
その事実を知った時、朝美はあまりの馬鹿らしさに、元よりなれ合うつもりはなかったといえ、クラスメイトの女子と交友を持とうという気持ちは消え失せたのだった。
「よかったわ、涼原さん。うるさいのを回収にきてくれて」
「うぅ、左内ちゃん先生、ひどいぃ。あたしのこと嫌いなの?」
「嫌いとかそーいう問題ではない。愚痴するだけで実際に行動するでもない泣き言を、延々聞かされるのがしんどいだけでしょうが」
左内先生は、定年退職を数年後に控えた、ベテランの女性保健医だ。
彼女は温厚で、心の弱い生徒を甘やかす・・・・・・なんてタイプでは決してない。言うべきことはきちんと言うし、かろうじて登校するものの授業に出られない「保健室登校」の生徒を、無条件に受け入れ匿うようなことはしない。それでも、そういった生徒からもそうでない生徒からをも人気を集めるのは、立場上、どんな時にでも中立からの意見を述べてくれるからだろうか。
「あ、そーいや、どーでもいいけど栄一は? 先にこっちに来てるはずなのに」
「ああ、あの子なら、そこの個室で寝ているわ。どうせ田中さんはあなたが来ないと動きゃしないって言ってね」
りょう子もそうだが、栄一は栄一でどーしようもない。同級生を相手にまるでおもりでもしているようで、朝美はどうにも納得しにくかった。
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