少年を拾って帰った翌日は、いつも通りの日常だった。父と自分の朝食と、昼食の弁当を作ってから学校へ。昨日のような不測の事態もなく定時に学校から帰り、夕暮れ時の縁側に落ち着き赤くなった庭を眺める。そうして体力が充填されたのを感じてから、スーパーマーケットへ買い出しへ出かける。
そう、魔女の策にまんまとかかり、涼原の家で養う羽目になったあの少年は、朝美と父が目覚めた時には姿を消していたのだ。彼と出会った、彼がいつも川を見下ろしていたあの橋の上にさえ姿を見せない。
まったく、人の家を散々騒がしておいて姿を消すとは、人騒がせな子供だ。本日の仕事ーー朝美の分担している家事を終え、自室のベッドに私服のまま横たわって、そんなことを思う。
元より、少年と関わったのは成り行きだ。消えてくれたのなら余分な手間が省けたと、そう考えられるなら気が楽だ。――そのはずなのだが、朝美はどこか釈然としない・・・・・・その、無自覚に寂しさを感じている自分をこれまた無意識に否定したくて、朝美はあえてひねくれた気持ちを作ろうとしていた。
朝美はベッドから誘われる眠気というものに弱い。パジャマに着替え、眠る準備を整えなくても、ベッドに横たわっているとつい眠りに落ちてしまう。
それは、朝美自身、この部屋で時間を潰せるような趣味というものを持ち合わせていないことも要因だった。娯楽的なものの何もない、殺風景な自分の部屋。表現したいものを持たないつまらない自分をそのまま表しているかのようで、朝美はこの部屋が大嫌いだった。
私服のまま、明かりも消さないで寝ては体の疲れもとれず、翌日に障る。朝になって後悔することがわかっていて、それでも抗えず目を瞑りそうになった時、ドアが開いた。その音に覚醒させられて体を起こすと、
「・・・・・・」
何事か言いたそうに、しかしどう言ったものかとためらっているらしいあの少年が、ドアの隙間から朝美を見ていた。言いたいことがあるなら言え、とか、ドアを開ける前にはノックくらいしろと言いたいところだが、他にはっきりさせなければならない用件があるから朝美はあえて無視することにした。
「どこ行ってたのよ。勝手に消えられたりしたら迷惑なの。別にここにいなきゃいけないってことはないけど、いたくないならそうとわかるようにしてくれなきゃ困るっての」
「いたくないわけじゃないよ。その・・・・・・」
後ろめたいことでもあるのか、うつむいて目をそらす。
「ご飯の時間とかにいたら、おれの分も作らないといけなくって、迷惑かけるかなって」
うじうじとした、ように朝美には見える主張に、昨夜の夕食を思い出す。彼の分の食事を目の前に置いてやると、やたらと恐縮し、水っぽいカレーを口に入れた時には妙な顔をしていた。
「ああ、口に合わなかったのね。そうならあの場で言ってくれりゃよかったのに」
「そ、そんなことないよ。おれの分、材料とかもったいない・・・・・・」
「あのねぇ。あたしは、お父さんがあんたを家で預かるっていうから、それに従うだけ。で、大人がそういうことを決めるのはイコール、食事の面倒なんか前提もいいところなのよ。子供を食わせてやるのは保護者の義務なんだからね。そんでもってあたしがご飯を作るのはあたしとお父さんのついでで、あんたのためなんかじゃないんだし」
「あんたが戻らなかったから夜はないけど、作ったお弁当は無駄になるから。今からでもちゃんと食べてよね。ほら、台所行くわよ」
「作っておいてくれたの? いなかったのに」
直前の話のどこを聞いていたのだろうか。ツッコミを入れる気にもなれず、黙殺する。
「あと、ドアを開ける前にノックはしなさい。あんたがしっかりしないと、親のしつけが疑われるんだから」
ていうか、ノックって知ってるわよね? 万が一のため確認しておくと、
「知ってるけど、やったことない・・・・・・次からやってみる」
もうすっかりなじんできた言い方に、すんなり納得した。
次の夕暮れ時は、2日越しに、快い心地で自分の時間を迎えられた。赤く染まる庭は開放的であるようで、川の土手との位置関係から外界の景色は意外と見えない。適度に閉ざされて、しかし天上から注ぐ赤い光に適度に包まれるのが朝美には爽快感をもたらしてくれる。
とぼとぼ、土手の道を歩いて帰ってきた少年は、ちらと朝美へ目をやった。おかえり、と声をかけてやると、はにかんで、ただいま、と。けれどそこへ立ち止まり、庭へ降りてこようとしない。
ああ、また面倒なことを考えているようだと察しがついて、うんざりしたくなる。
「いつまでそこにいるつもりよ」
「いいの?」
「何が」
「のんびりしてるように見えたから、邪魔しちゃいけないかと思って」
「・・・・・・」
見透かされたような発言に、朝美は言葉を失う。苛立っていいのか恥じらっていいのか、自分の取るべき態度がわからなくなる。
「・・・・・・別に。構わないから、こっちへおいで」
その反応もまた、少年からすれば意外だったのだろう。首を傾げて、しかし逆らわずに、朝美のもとへ歩み寄る。
この子供は、見ていないようでいて、他人の機嫌を窺いすぎるほどに見ているようだ。朝美は年下の子供の面倒を見るのに慣れていないせいか、たまにどうしてやったらいいのかわからなくなる。
「今日はどこで何してきたの?」
「石の手がかりを探して、町を歩いていたんだ。でもわからなかった。あの川と・・・・・・」
この庭以外には。少年がその言葉をあえて呑み込んだらしいことは、朝美にもわかった。彼がそうした理由こそが朝美にはよくわからないけれど。
「・・・・・・欲しいものがあるのなら、ちゃんとそう言わないと、あげられるものもそうしてやれないんだけど」
「・・・・・・でも、君だって。昨日、願い事を教えてくれなかったじゃないか」
「言ったじゃない。『ない』ってさ」
「嘘だよ、あれは」
まっすぐ見上げてくる目は、確信めいていた。自分より小さな子供に気圧されそうな、少年の気持ちの強さに、朝美は首周りにじとりと汗の伝うのを感じた。
「おれは、自分が話すのも、人の話を聞くのも慣れてないから。目で見るしかないから、わかったんだ。願い事がないわけじゃなくって、話してくれなかっただけだって」
こうして少年と向き合うことは、自分自身と向き合うことと同じことかもしれない。事実、朝美が認めたくなかったことを少年は言い当ててしまった。
「ったく、嘘なんて言われると人聞きが悪いじゃない。だったら本当のことを言ってあげる。あたしはね、もう、他人に期待するのなんか望んでないの。そういう自分でいられることを、あたしは何より望んでいるの。その願いを叶えるのに魔女の力だの、願いの叶う石だの、必要ないでしょ?」
だから、嘘なんかついてはいない。自分が気持ちを強く持てるなら、石なんか必要はないのだから。この期に及んで、朝美は自分の本心を認めることを回避した。
それは確かに詭弁だったから、少年を戸惑わせた。そんな表情から目を背けるために、朝美は決断した。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」
そう、魔女の策にまんまとかかり、涼原の家で養う羽目になったあの少年は、朝美と父が目覚めた時には姿を消していたのだ。彼と出会った、彼がいつも川を見下ろしていたあの橋の上にさえ姿を見せない。
まったく、人の家を散々騒がしておいて姿を消すとは、人騒がせな子供だ。本日の仕事ーー朝美の分担している家事を終え、自室のベッドに私服のまま横たわって、そんなことを思う。
元より、少年と関わったのは成り行きだ。消えてくれたのなら余分な手間が省けたと、そう考えられるなら気が楽だ。――そのはずなのだが、朝美はどこか釈然としない・・・・・・その、無自覚に寂しさを感じている自分をこれまた無意識に否定したくて、朝美はあえてひねくれた気持ちを作ろうとしていた。
朝美はベッドから誘われる眠気というものに弱い。パジャマに着替え、眠る準備を整えなくても、ベッドに横たわっているとつい眠りに落ちてしまう。
それは、朝美自身、この部屋で時間を潰せるような趣味というものを持ち合わせていないことも要因だった。娯楽的なものの何もない、殺風景な自分の部屋。表現したいものを持たないつまらない自分をそのまま表しているかのようで、朝美はこの部屋が大嫌いだった。
私服のまま、明かりも消さないで寝ては体の疲れもとれず、翌日に障る。朝になって後悔することがわかっていて、それでも抗えず目を瞑りそうになった時、ドアが開いた。その音に覚醒させられて体を起こすと、
「・・・・・・」
何事か言いたそうに、しかしどう言ったものかとためらっているらしいあの少年が、ドアの隙間から朝美を見ていた。言いたいことがあるなら言え、とか、ドアを開ける前にはノックくらいしろと言いたいところだが、他にはっきりさせなければならない用件があるから朝美はあえて無視することにした。
「どこ行ってたのよ。勝手に消えられたりしたら迷惑なの。別にここにいなきゃいけないってことはないけど、いたくないならそうとわかるようにしてくれなきゃ困るっての」
「いたくないわけじゃないよ。その・・・・・・」
後ろめたいことでもあるのか、うつむいて目をそらす。
「ご飯の時間とかにいたら、おれの分も作らないといけなくって、迷惑かけるかなって」
うじうじとした、ように朝美には見える主張に、昨夜の夕食を思い出す。彼の分の食事を目の前に置いてやると、やたらと恐縮し、水っぽいカレーを口に入れた時には妙な顔をしていた。
「ああ、口に合わなかったのね。そうならあの場で言ってくれりゃよかったのに」
「そ、そんなことないよ。おれの分、材料とかもったいない・・・・・・」
「あのねぇ。あたしは、お父さんがあんたを家で預かるっていうから、それに従うだけ。で、大人がそういうことを決めるのはイコール、食事の面倒なんか前提もいいところなのよ。子供を食わせてやるのは保護者の義務なんだからね。そんでもってあたしがご飯を作るのはあたしとお父さんのついでで、あんたのためなんかじゃないんだし」
「あんたが戻らなかったから夜はないけど、作ったお弁当は無駄になるから。今からでもちゃんと食べてよね。ほら、台所行くわよ」
「作っておいてくれたの? いなかったのに」
直前の話のどこを聞いていたのだろうか。ツッコミを入れる気にもなれず、黙殺する。
「あと、ドアを開ける前にノックはしなさい。あんたがしっかりしないと、親のしつけが疑われるんだから」
ていうか、ノックって知ってるわよね? 万が一のため確認しておくと、
「知ってるけど、やったことない・・・・・・次からやってみる」
もうすっかりなじんできた言い方に、すんなり納得した。
次の夕暮れ時は、2日越しに、快い心地で自分の時間を迎えられた。赤く染まる庭は開放的であるようで、川の土手との位置関係から外界の景色は意外と見えない。適度に閉ざされて、しかし天上から注ぐ赤い光に適度に包まれるのが朝美には爽快感をもたらしてくれる。
とぼとぼ、土手の道を歩いて帰ってきた少年は、ちらと朝美へ目をやった。おかえり、と声をかけてやると、はにかんで、ただいま、と。けれどそこへ立ち止まり、庭へ降りてこようとしない。
ああ、また面倒なことを考えているようだと察しがついて、うんざりしたくなる。
「いつまでそこにいるつもりよ」
「いいの?」
「何が」
「のんびりしてるように見えたから、邪魔しちゃいけないかと思って」
「・・・・・・」
見透かされたような発言に、朝美は言葉を失う。苛立っていいのか恥じらっていいのか、自分の取るべき態度がわからなくなる。
「・・・・・・別に。構わないから、こっちへおいで」
その反応もまた、少年からすれば意外だったのだろう。首を傾げて、しかし逆らわずに、朝美のもとへ歩み寄る。
この子供は、見ていないようでいて、他人の機嫌を窺いすぎるほどに見ているようだ。朝美は年下の子供の面倒を見るのに慣れていないせいか、たまにどうしてやったらいいのかわからなくなる。
「今日はどこで何してきたの?」
「石の手がかりを探して、町を歩いていたんだ。でもわからなかった。あの川と・・・・・・」
この庭以外には。少年がその言葉をあえて呑み込んだらしいことは、朝美にもわかった。彼がそうした理由こそが朝美にはよくわからないけれど。
「・・・・・・欲しいものがあるのなら、ちゃんとそう言わないと、あげられるものもそうしてやれないんだけど」
「・・・・・・でも、君だって。昨日、願い事を教えてくれなかったじゃないか」
「言ったじゃない。『ない』ってさ」
「嘘だよ、あれは」
まっすぐ見上げてくる目は、確信めいていた。自分より小さな子供に気圧されそうな、少年の気持ちの強さに、朝美は首周りにじとりと汗の伝うのを感じた。
「おれは、自分が話すのも、人の話を聞くのも慣れてないから。目で見るしかないから、わかったんだ。願い事がないわけじゃなくって、話してくれなかっただけだって」
こうして少年と向き合うことは、自分自身と向き合うことと同じことかもしれない。事実、朝美が認めたくなかったことを少年は言い当ててしまった。
「ったく、嘘なんて言われると人聞きが悪いじゃない。だったら本当のことを言ってあげる。あたしはね、もう、他人に期待するのなんか望んでないの。そういう自分でいられることを、あたしは何より望んでいるの。その願いを叶えるのに魔女の力だの、願いの叶う石だの、必要ないでしょ?」
だから、嘘なんかついてはいない。自分が気持ちを強く持てるなら、石なんか必要はないのだから。この期に及んで、朝美は自分の本心を認めることを回避した。
それは確かに詭弁だったから、少年を戸惑わせた。そんな表情から目を背けるために、朝美は決断した。
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