この日、学校の6時間目はホームルームで、11月に開催される文化祭についてが議題だった。これがまた大いに揉めて、当日は展示で楽がしたい派、茶菓子を振る舞う休憩所で楽しみたい派、演劇がしたい派とで、クラスはきれいに3つに割れてしまった。かくいう朝美は、学校が終われば家事に追われる身であり、連日の練習があると予想出来る演劇だけは御免だし、展示は当日が楽なだけであって事前の準備はもしかしたら休憩所より時間がとられかねない。というわけで何としても休憩所、という心意気で、彼女にしてはややヒートアップして議論に挑んだのだった。
その結果、精神は尽くしてへとへとになり、学校から家へ帰る前に直接、スーパーへ夕食の買い出しに出かけなければならなくて。日課としている、夕暮れ前の自宅庭で1人くつろぐ心のリフレッシュも出来そうになく、心は荒むというより沈んでいた。
「お~じょう、さんっ! ポケットティッシュもらってってよ!」
商店街、行く手を塞ぐように飛び込んできた少女のタイミングはまさに最悪だった。しかしながら、家計の一端を担う身としては無償のティッシュは正直にありがたく、憮然とした態度で黙って受け取る。
「ありがと~! これで最後のひとつなの。おかげでいつもより早く帰れるわ。ところでお嬢さん、この辺であまり見ない顔よね。どこかから引っ越してきたとか?」
少女はアルバイトでこの周辺を毎日行き来していて、かつ同年代の子供の顔はよく覚えていた。
「あんたこそ、数年前には見なかった顔ね。あたしは出戻りだけど、あんたも元はよそから来たんじゃないの」
朝美も、かつてこの町にいた当時の顔見知りには、戻ってきてから道すがらに再会してもお互いにわかる程度は覚えている。
「ご明察、あたしも何年か前に、北の国から移住してきたのよね」
北の国から・・・・・・なんとなく、北海道出身だろうか。根拠はもちろん、有名な例の作品だ。
「それじゃバイバイ。またの機会によろしくね」
またの機会なんて来なくていい。などと、ひねたことを考える程には、朝美は彼女に対して不快感は覚えなかった。空気が合う、というか波長が近い、というか。別れ際、そういった感覚的な好印象が残ったのだ。
ご機嫌にスキップなどして去っていく彼女の後ろ姿を、朝美は見送ってから歩きだした。
もうだいぶ、太陽の位置は低い。自宅近くのあの橋にさしかかる直前、朝美はいつもの少年のことを思い出し、この時間ならさすがに彼も帰ってくれているかもしれないと朝美は期待した。別に会いたくないわけでもないが、子供はやっぱり、日暮れには家へ帰るべきだ。
個人的な感情と理性を秤にかけ、どうにか後者に重きを置いた朝美だったが、現実に叶ったのは前者だった。少年は橋の上の定位置で、すでに沈みかかっている夕日に目もくれず、赤くきらめく水面を、そして見えもしない川底を凝視している。
何とはなし、朝美は少年に距離を置いたまま声をかけず、彼の眺める石野川の流れ、その先へ目線をくれる。沈みゆく夕日に形どられるシルエットは、工場群のそれだ。
朝美が幼い頃を過ごしたこの木庭(こば)町は、工業の町だった。石野川の下流に町工場を、そこへ勤務する者が家を買って住まう住宅街が川の中流にある。工場と家との往復、住民はろくにこの町を出る機会ももたない。若者に需要のある洒落た娯楽も、派手な繁華街もありはしない。朝美が一旦この町を去った当時にはまともな鉄道路線さえ通っていなかったが、近年、都心と直通している新しい路線が開通したと話題になっていた――そうして作られた真新しい駅の周辺だけが妙に小綺麗で、まるで異世界のように朝美には見えた――が、結局その通過駅に過ぎないこの町には、たとえ都心との繋がりが生まれたところで人もそれ以外のものにも、大きな出入りはない。
まるで時が止まっているかのようだ。懐かしく憂鬱なこの町に帰ってきて、あらためて客観視した結果、朝美はそう考えた。もちろん、時はいつだって動いていて、人は確実に齢を重ねている。止まっているのは心だ。漫然と働き、新しい風景を見ることもない、人々の心は、老いていくばかりだ新しい感情を吸収することなど出来るはずもない。
友人と共に、川辺やら町中やら自宅の庭やらを駆け、遊んでいた日々も彼女にはあった。幼い目には、それがどんなに退屈なものだとしても、初めて見るものであるから新鮮なのだ。そうした喜びは時の蓄積と共に失われ、幼い生きる活力もまた剥げ落ちていく。
川の流れに意識を投影するように、朝美は思った。まるで、もうずっとずっと前に、自分の気持ちの大切な部分をこの川に流して、どこかへやってしまったかのようだ。
その気持ちは、いつか取り戻さなければならないような気がする。この川の流れの先まで自ら歩んでいって。そうして絶望するのだ。この川に果てなどなく、手放してしまったものはとっくに、あの夕日に取り込まれてしまい、取り戻すことなど出来ないかもしれない。それでもわずかな可能性にすがって歩み続けなければならない苦しみに。
沈みかけの夕日というものは案外とせっかちであり、朝美がわずか考え込んだその最中、すでに工場群の影の向こう側に姿を隠していた。
それとほとんど同時、少年が下に向けていた目線をあげ、橋の欄干をつかんでいた手を放したのは朝美にはいささか意外だった。日が沈んだら家に帰れ。そう何度か言ってはいるけれど、少年のこの場所への固執は目に見えてわかっていたものだから、てっきり自分の言など無視されるものと考えていたのだ。
迷いない足取りで、朝美の立ち尽くすのとは逆方向へ歩いていった。そのせいで朝美の存在には気がつかない。
後をつけよう、なんて悪趣味なことをするつもりはなかった。彼がこのまま、住宅街へと姿を消すならば。少年が、朝美の予想を超える行動をとらなければ、そんなことをする必要はなかったのだ。
少年は橋を渡ったところで、すぐさま直角に左へ曲がる。それは川の土手の道であり、そこに備えられた、川岸へ下りるコンクリートの階段をとぼとぼと歩いていく。その寂しい有様に胸騒ぎを覚えて。
ただでさえ日暮れ時、これからみるみる闇が濃くなっていくというのに、少年は橋の下の暗がりに腰を下ろし、今度は目線に近く、やっぱり川の水面を見つめていた。あきれたいところではあったが、
「あんた、まさか家出人なわけ?」
さすがに、真っ先に危惧すべき点を見失いはしない。それなりの緊張感を込めてそう呼びかけると、気がついた少年はびくり、肩を震わせた。しかし、彼を驚かせたのは別に話の内容にではなかった。
「あれ? いつもの人だ。どうしてここにいるんだよ」
「それはこっちが聞いてるのよ。もうじき暗くなるってのにこんな暗がりにいて、なんなのあんた」
どうやら悪気なく、家へ帰るつもりはないらしい。帰る場所は、ないのだろうか。きょとんとした、わかっていないような顔が物語っている。
買い物袋に両手を塞がれていることが余計に、朝美に疲れを意識させた。ため息を吐き出して、肩の力を抜いて、朝美は毅然と少年に向き合う。
「見ちゃった以上、こんなところに放置してはおけない。とりあえず、あたしについてきなさい。家へ連れてくから」
「えぇーっ」
「何よいやそうな声なんか出して! あんたみたいのと関わって、迷惑なのはあたしのほうでしょうが」
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」
その結果、精神は尽くしてへとへとになり、学校から家へ帰る前に直接、スーパーへ夕食の買い出しに出かけなければならなくて。日課としている、夕暮れ前の自宅庭で1人くつろぐ心のリフレッシュも出来そうになく、心は荒むというより沈んでいた。
「お~じょう、さんっ! ポケットティッシュもらってってよ!」
商店街、行く手を塞ぐように飛び込んできた少女のタイミングはまさに最悪だった。しかしながら、家計の一端を担う身としては無償のティッシュは正直にありがたく、憮然とした態度で黙って受け取る。
「ありがと~! これで最後のひとつなの。おかげでいつもより早く帰れるわ。ところでお嬢さん、この辺であまり見ない顔よね。どこかから引っ越してきたとか?」
少女はアルバイトでこの周辺を毎日行き来していて、かつ同年代の子供の顔はよく覚えていた。
「あんたこそ、数年前には見なかった顔ね。あたしは出戻りだけど、あんたも元はよそから来たんじゃないの」
朝美も、かつてこの町にいた当時の顔見知りには、戻ってきてから道すがらに再会してもお互いにわかる程度は覚えている。
「ご明察、あたしも何年か前に、北の国から移住してきたのよね」
北の国から・・・・・・なんとなく、北海道出身だろうか。根拠はもちろん、有名な例の作品だ。
「それじゃバイバイ。またの機会によろしくね」
またの機会なんて来なくていい。などと、ひねたことを考える程には、朝美は彼女に対して不快感は覚えなかった。空気が合う、というか波長が近い、というか。別れ際、そういった感覚的な好印象が残ったのだ。
ご機嫌にスキップなどして去っていく彼女の後ろ姿を、朝美は見送ってから歩きだした。
もうだいぶ、太陽の位置は低い。自宅近くのあの橋にさしかかる直前、朝美はいつもの少年のことを思い出し、この時間ならさすがに彼も帰ってくれているかもしれないと朝美は期待した。別に会いたくないわけでもないが、子供はやっぱり、日暮れには家へ帰るべきだ。
個人的な感情と理性を秤にかけ、どうにか後者に重きを置いた朝美だったが、現実に叶ったのは前者だった。少年は橋の上の定位置で、すでに沈みかかっている夕日に目もくれず、赤くきらめく水面を、そして見えもしない川底を凝視している。
何とはなし、朝美は少年に距離を置いたまま声をかけず、彼の眺める石野川の流れ、その先へ目線をくれる。沈みゆく夕日に形どられるシルエットは、工場群のそれだ。
朝美が幼い頃を過ごしたこの木庭(こば)町は、工業の町だった。石野川の下流に町工場を、そこへ勤務する者が家を買って住まう住宅街が川の中流にある。工場と家との往復、住民はろくにこの町を出る機会ももたない。若者に需要のある洒落た娯楽も、派手な繁華街もありはしない。朝美が一旦この町を去った当時にはまともな鉄道路線さえ通っていなかったが、近年、都心と直通している新しい路線が開通したと話題になっていた――そうして作られた真新しい駅の周辺だけが妙に小綺麗で、まるで異世界のように朝美には見えた――が、結局その通過駅に過ぎないこの町には、たとえ都心との繋がりが生まれたところで人もそれ以外のものにも、大きな出入りはない。
まるで時が止まっているかのようだ。懐かしく憂鬱なこの町に帰ってきて、あらためて客観視した結果、朝美はそう考えた。もちろん、時はいつだって動いていて、人は確実に齢を重ねている。止まっているのは心だ。漫然と働き、新しい風景を見ることもない、人々の心は、老いていくばかりだ新しい感情を吸収することなど出来るはずもない。
友人と共に、川辺やら町中やら自宅の庭やらを駆け、遊んでいた日々も彼女にはあった。幼い目には、それがどんなに退屈なものだとしても、初めて見るものであるから新鮮なのだ。そうした喜びは時の蓄積と共に失われ、幼い生きる活力もまた剥げ落ちていく。
川の流れに意識を投影するように、朝美は思った。まるで、もうずっとずっと前に、自分の気持ちの大切な部分をこの川に流して、どこかへやってしまったかのようだ。
その気持ちは、いつか取り戻さなければならないような気がする。この川の流れの先まで自ら歩んでいって。そうして絶望するのだ。この川に果てなどなく、手放してしまったものはとっくに、あの夕日に取り込まれてしまい、取り戻すことなど出来ないかもしれない。それでもわずかな可能性にすがって歩み続けなければならない苦しみに。
沈みかけの夕日というものは案外とせっかちであり、朝美がわずか考え込んだその最中、すでに工場群の影の向こう側に姿を隠していた。
それとほとんど同時、少年が下に向けていた目線をあげ、橋の欄干をつかんでいた手を放したのは朝美にはいささか意外だった。日が沈んだら家に帰れ。そう何度か言ってはいるけれど、少年のこの場所への固執は目に見えてわかっていたものだから、てっきり自分の言など無視されるものと考えていたのだ。
迷いない足取りで、朝美の立ち尽くすのとは逆方向へ歩いていった。そのせいで朝美の存在には気がつかない。
後をつけよう、なんて悪趣味なことをするつもりはなかった。彼がこのまま、住宅街へと姿を消すならば。少年が、朝美の予想を超える行動をとらなければ、そんなことをする必要はなかったのだ。
少年は橋を渡ったところで、すぐさま直角に左へ曲がる。それは川の土手の道であり、そこに備えられた、川岸へ下りるコンクリートの階段をとぼとぼと歩いていく。その寂しい有様に胸騒ぎを覚えて。
ただでさえ日暮れ時、これからみるみる闇が濃くなっていくというのに、少年は橋の下の暗がりに腰を下ろし、今度は目線に近く、やっぱり川の水面を見つめていた。あきれたいところではあったが、
「あんた、まさか家出人なわけ?」
さすがに、真っ先に危惧すべき点を見失いはしない。それなりの緊張感を込めてそう呼びかけると、気がついた少年はびくり、肩を震わせた。しかし、彼を驚かせたのは別に話の内容にではなかった。
「あれ? いつもの人だ。どうしてここにいるんだよ」
「それはこっちが聞いてるのよ。もうじき暗くなるってのにこんな暗がりにいて、なんなのあんた」
どうやら悪気なく、家へ帰るつもりはないらしい。帰る場所は、ないのだろうか。きょとんとした、わかっていないような顔が物語っている。
買い物袋に両手を塞がれていることが余計に、朝美に疲れを意識させた。ため息を吐き出して、肩の力を抜いて、朝美は毅然と少年に向き合う。
「見ちゃった以上、こんなところに放置してはおけない。とりあえず、あたしについてきなさい。家へ連れてくから」
「えぇーっ」
「何よいやそうな声なんか出して! あんたみたいのと関わって、迷惑なのはあたしのほうでしょうが」
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」