
yard 第1話 「赤い庭」
夕暮れ時、縁側に腰を下ろし眺める、赤く染まった庭が彼女の居場所だった。
この庭から赤が失せ、宵闇に浸食される時分には、父と彼女自身の夕食を用意すべく台所に立たなければならない。夕食を済ませたら自室に引き上げ、学校の宿題なり明日の準備なりを意識しなければならない。
食材の買い出し商店街へ繰り出す前のこのひとときだけ、ひとりきり、彼女は自分のことだけを考えていられる――あるいは、心を空っぽにして、何も考えないでいられるのだ。そんな時間は彼女――涼原朝美にとって、かけがえのない息抜きとなっていた。
涼原の家は、舗装され車道になっている川の土手に沿う低い位置にある。眺める視線の先に雑草の茂る斜面にさえぎられるが、時折土手を通りゆく車やら自転車やらといった光景が朝美は嫌いではなかった。
安らぎの時間とはいえ、いつまでもこうしていられるわけではない。いかに焦燥しようと日は容赦なく暮れゆく。朝美は名残惜しい気持ちをやり過ごし、立ち上がった。
中学校の制服から私服に着替える。黒いつなぎのスカートには年相応に心がけるべき華やかさとはほど遠いけれど、着替えるのにもくつろぐのにも家事をするのにも楽に過ごせる、彼女のスタンダードな衣服だ。胸元にしつらえられた大きめのポケットにがま口の財布をつっこんで、彼女は町へ繰り出す。
最寄りでいて、かつこの近辺で最も商品の平均単価が安いスーパーマーケットで買い出しをして、両手いっぱいに食材をぶら下げて帰路につく。その道中、自宅に近い石野川にかかる橋の上で目に付くものに、朝美は理不尽な衝動を胸に沸かせる。
4車線の左右それぞれに、スペースにも余裕のある歩道の設けられた大きな橋。学校にも買い物にも、自宅との出入りに必ず通らなければならないこの橋のちょうど真ん中。朝美と父がこの町に転居してきた数日前からずっと、同じ場所に佇んでいた。2学期が始まったばかりのこの残暑に、空色のダウンジャケットとうさぎを模した桜色のマフラーという暑苦しい出で立ちで、いつ見ても同じポーズ、手すりに両手をかけてじっと川の流れに心を奪われている。
朝美は少年を見かける度、少しずつ、苛立ちを蓄積されていた。最初の1度はただ、胸にちくりと痛みを覚えただけ。以降、少年がその場所に固執するようにずっとそうしているのを、この橋を通る度目にする羽目になり、痛みを八つ当たりめいた感情に変化させてしまった。痛みを覚えている、という、その事実から目をそらしたいがために。
「ちょっと、そこのあんた」
少年の、夕日を受けて後ろへ伸びる影の上に立ち、朝美は呼びかけた。少年は反応がない。まるで聞こえていないように。無視までしてくれちゃって、などと言いがかりでしかないことを考えつつ、
「耳ついてんでしょ。あんたよ、あんた」
少年の肩をつかみ、無理矢理に自分の方へ体を向かせる。バランスをくずしてよろけながら、少年は長すぎる前髪の隙間から朝美を見上げる。中学2年生の朝美よりも幼い外見から、小学6年生くらいだろうか、とあたりをつける。
「え、・・・・・・え? おれ?」
「他に誰がいるっての。毎日毎日同じ場所に突っ立って何してんの? 自殺者か何かと間違われて通報されても知らないから」
石野川は、川の上流だけでなく、中流から下流にかけて、水面スレスレまで大きな岩が敷き詰められるように転がっていることが名前の由来になっている。特にこの橋の上では、度胸試しと手すりに立って歩いていた子供が転落して亡くなり、自殺志願者が長時間居座り警察沙汰になりといった出来事が過去に幾度か起こっている。その手の騒ぎに近隣住民もいい加減辟易しており、橋の上の不審者に対して意識は敏感になっていた。
少年は口をふくらませ、ぼやく。
「自殺なんかしないけど、警察なんて困るよ」
「だったら、こんな誤解を招く場所にいつまでもいないで、さっさとお家に帰りなさい」
身勝手に、言いたいことだけ言って朝美は手を振った。ささやかな鬱憤ばらしはした、けれどえもいわれぬ気分の悪さは今も胸の内を波立たせる。うち寄せてはひいていく、波打ち際の潮のように。
はたして、翌日の同じような時間、その場所で見たものに朝美は脱力した。何故だか昨日までのような苛立ちを覚えないのは昨日の時点でこうなるような漠然とした予感があったからだろうか。
「あんた、まだやってんの」
声をかけてみると、昨日と違って瞬時に振り返ってくるが、今度はやたらうれしそうに頬をゆるめ、笑みの形に大きく口が開いている。
「な、なによ、気色悪いわね」
「おれ、町中で知らない人に声かけられるの、初めてなんだ。それも2回も!」
「喜んでる場合じゃないでしょ。町で知らない人に声かけられても、ついていったり、簡単に信用しちゃいけないって親に教わらなかったの?」
「う~ん、どうだったかなぁ・・・・・・。あ、でも前に住んでた場所は人がぜーんぜんいなかったから、そういうの心配してなかったのかも」
「だとしても、念のため教えてはおかないと、あんたみたいな危なっかしい奴になるわけね」
家に帰ったらそこのところ親に言っておきなさい、とは、感じただけで口にはせず呑み込んだ。朝美の信条のひとつに、よく知りもしない、相手の親をうかつに虚仮にしないというものがある。自分がそれをされたなら、教育的指導にとりあえず1発ひっぱたいてやるとも決めている。
忌まわしい出来事の後、この町を去り、ひと月まえにやむなく戻ってきてからも、朝美は未だ川を直視することは出来ない。その方向を見ず適当に、沈みかかりの夕日を指差す。
「あれが沈む前には帰るのよ」
朝美にも、思い当たることはあった。この2日続けて、別れ際には「帰れ」と言ったけれど、それに対する少年の返事はなかったということに。
今度は声をかける前、背後に立った気配を感じでもしたのか、少年はにやついた体(てい)で、おまけとばかり弾みをつけて彼女に向き合う。
「もう3回目。知らない人じゃないでしょ」
「えーと、町の中で、知ってる人に話しかけられるのも・・・・・・」
「もういい、きりがないから」
というか、一体どんな鳥かご生活をしていたというのだろうか、この少年は。などと思わず想像してしまう。彼と口をきいたわずかな時間でさえ、朝美は少年の異様さに気付かされ始めていた。
「それであんた、毎日毎日ここで何してんのよ。同じものばっか見てて飽きないわけ」
ふと、表情を真剣にして、少年は赤く煌めく川に目をやる。それは向いている方角からして、まるで夕日に対して挑むかのようにも錯覚させられて、その一瞬だけは朝美も少年に見惚れるような気がした。まさかね。朝美は深く考えず、否定することで、その感情をやり過ごした。
「おれの探しているものが、この川の中にあるような気がするんだ」
「探し物? 落としたの、川の中に」
少年は首を振る。前髪が左右に振れて、また彼の目を隠すのを朝美はうっとおしいと思った。
「わかんない。ただ、なんとなくこの中にあるような気がして」
「わかんないのはこっちの方だわ・・・・・・ともかく、いくら残暑ったって、もう川の中に入れるような季節じゃないものね。いい加減、諦めて帰りなさい」
また返事をせず、よくわかっていないような顔で、少年は朝美を見上げている。はいはい、どうせ言っても無駄なんでしょうね。すっかり諦めてしまったのは実は朝美の方で、
「バイバイ」
どこか愉快な心持ち、自分から別れの挨拶などしてみせる。人付き合いというものに関心の薄い彼女は日頃、投げられた挨拶に返事をすることはあっても自分からそれをすることはほとんどない。一部の例外を除いては。
「うん。またね」
ああ、やっぱりわかってない。その一言だけで確信の持てる挨拶を返し、少年はやはり、見えもしない川底に目を凝らす作業へ戻るのだった。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」