「ところでさ、君、名前はなんていうの?」
いたって自然に過ぎるりょう子の質問に、ぎくり、少年は表情をこわばらせた。
「言えないんだってさ」
「え、なんでぇ?」
「名前とか素性とか知られちゃうと、ここにはいられなくなるって。連れ戻されちゃうんじゃない?」
「へぇ~、もしかして名前を言ったらどこのお家の子かわかっちゃうくらい有名ってこと? すっごーい」
「いや、あんたには負けるでしょ、確実に」
りょう子は、女優である母親とうり二つの容貌をしている。その上、どこかのテレビ番組で「りょう子」という名前を彼女の母は公表しており、2つセットで彼女のルーツは誰が見ても明らかなのだった。
「涼原ちゃんと一緒にいたいっていうのはいいんだけど、ちゃんと帰らないと、お父さんやお母さんが心配するんじゃないかなー」
「・・・・・・りょう子ったら、意外とまともなことも言うんじゃない」
涼原ちゃんと一緒に、という部分に突っ込んだらりょう子の思うつぼであると理解して、朝美は素直な感想を述べる。案の定、りょう子はころりと罠にかかってくれる。
「ひどいなぁ、涼原ちゃん。そりゃあ、わたしだってお父さんとお母さんがいるんだから、それくらいはちゃんとわかるよ。いなかったら、わかんないかもしれないけど」
「なるほどね」
「心配、するかな。・・・・・・おれ、お父さんにもお母さんにもたくさん迷惑をかけてきたから・・・・・・」
つぶやき、少年はうなだれる。一応は朝美達に心配をかけないようにと、あからさまな気落ちは見せないようつとめたつもりだったのだろう。残念ながら少年はあまり表面を取り繕うのは得意ではないようで、その努力はどちらかといえば無駄骨であったのだが。
「そ、そうだ! 名前がわからないんじゃ不便だから、あだ名を考えればいいんだよ」
辛気くさい空気を変えようと、りょう子は柄でもない気遣いで話をそらしてみせる。
「えーとねぇ、かずおちゃんてどう?」
「ちょっと、何の脈絡もないじゃない。元ネタは何よ、かずおちゃん」
「わたしの知り合いのおじさんだよ。ほわわ~んとして、君と雰囲気ちょっとだけ共通点っていうか」
いくら共通点、とはいえ、見も知らぬ赤の他人である。少年もさぞ微妙な反応をしてるだろう、と思いきや。
「・・・・・・」
「・・・・・・もしかして、気に入ったの?」
「えっ!」
「かずおちゃん」と提案したりょう子へ向ける少年の眼差しは、驚き半分――もう半分は、何か尊いものを見るかのように、ひっそりと目を輝かせているようだった。
「えっと、その・・・・・・悪い名前じゃないと、思う」
朝美には正直、少年の考えは皆目見当もつかないのだが、ひとつだけ確かと思えることがある。りょう子が深い意味などなく挙げた名前に、少年はまんざらの反応でもないということ。
「じゃあ、『かず』って呼ぶことにする。それでいい?」
かずお、が悪いとは言わないが、りょう子しか知らないとはいえ別人の名前をそのまま流用するというのが朝美には引っかかるところがあり、そう提案した。
「よろしくねー、かずちゃん!」
「けど、いいのかなぁ」
そう、朝美も、思い出さないではなかった。かつて少年は、朝美に打ち明けた。魔女は、願いを叶える石集めのゲーム以外にも、少年に「魔法」をかけ、彼が誰かの名を呼ぶことと、呼ばれることを禁じた。その条件を破れば、魔法を解いてしまうと。
「いいのよ。だって、あたしらがてっきとーにつけただけのあだ名なんか、あんたの大切な本名と比べたら何の価値もない。そんな程度のものが、あんたの大切な何かと引き替えになるような、ペナルティになんかなりっこないでしょ」
魔女が少年にかけた「魔法」の中身を、朝美はまだ知らない。
「大切な、本名・・・・・・?」
「そ。大切でしょ? あんたの名前にだって、親の考えた由来ってあるんじゃない?」
「ちなみにわたしの名前ねぇ、お父さんが竜に子ってかいて『りょうこ』って読ませたかったらしいんだけどね? 『竜』って字は普通、『りょう』とは読まないって生まれてから気が付いたんだって」
「ていうかりょう子のお父さんて作家じゃなかったっけ?」
漢字も読めないのに、とは言うまでもなくりょう子も察しているようで、あはは、と乾いた笑いを浮かべている。要するに、言われ慣れているのだった。
りょう子と別れ、父の待つ我が家への帰り道。川沿いの土手を歩いていると、背後をついてくる少年の足音に、とぼとぼと、気落ちした気配が嫌というほど伝わってきた。
「何をへこんでるのよ、さっきから」
りょう子と話していた間も、両親の自分への感情を想うことで落ち込んでいる様子はあったが、あだ名を決めるくだりでいったん浮上したはずの心情をまたしても沈ませるようなやりとりがあったようには朝美には思われない。それでも、現に少年は落ち込んでいるわけで。
「おれの、本当の名前・・・・・・おれにとっても、つけてくれたお母さんにとっても、自慢の由来があったんだ」
「へぇ・・・・・・」
「それを自慢出来ないのが、なんとなく、残念な気がしちゃって。ねぇ、君の名前は、どんな由来があるの?」
りょう子のように恥ずかしげもなく、自分の名前の由来など語れる気はしなかったが、それで少年の気がまぎれるならと朝美は思う。
「あたしのお父さんとお母さんは、この町で生まれてね。お母さんの名前は夕子っていうんだけど、おじいちゃんが、この町の、ひろ~い川の向こうに日が沈んでいく夕暮れどきの景色が、大好きだったからつけたんだって」
朝美にとっても故郷である、この木庭町のシンボル。町の中央を貫く石の川は横幅が広大であり、沈んでいく夕日にその川が染められる様は確かに見ほれるまでに美しい。
「うちのお父さん、趣味で夜明け直後にジョギングしてるんだけど・・・・・・朝焼けの町の景色だって、夕焼けに負けないくらい綺麗だって、あたしに朝美って名をつけたのよ」
父、裕二と母、夕子は、幼なじみだった。現在も父が営んでいる町工場は元は母の実家であり、裕二も子供の頃から出入りをしていた。朝美にとっては祖父である、夕子の父とも裕二は子供の頃からの馴染みであり、祖父の死後、彼が生前守ってきた町工場を失うことを裕二は忍びなく思い、その後継ぎを買って出た。
娘に、母と対になる名をつけた――それはすなわち、夕子の名をつけた祖父に対する敬意でもあるのだった。
「いい名前だね。お母さんともお揃いだし」
「お父さんはいつでも、お母さんが第一だからね・・・・・・」
生まれた娘にも、母と揃いの名をつけた。それを思い起こす時、朝美は自分の内に生じる醜い衝動に、自己嫌悪で気が遠くなるように感じる。その感情を振り払うように、朝美は意識を別の対象へ誘導する。
「お父さんといえば、昨日はどうだった?」
「おじさんは、色んなことを話してくれたよ。ほとんど、君と、君のお母さんのことだったけど」
「おれのお父さんも、君のお父さんみたいだったら良かったなぁ」
「何が?」
「話してる時の顔がね。おじさんは君達のこと、本当に大好きで、大切なんだって、よくわかるから。だから君も、お父さんのことが、大好きなんだよね?」
・・・・・・朝美は、出会って間もない人間に、見透かされたようなことを言われるのは愉快ではないと思う。しかしどうしてなのか、少年の口から出たその真実は、別に不愉快ではなかった。
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イリサ「読んでくださりありがとうございました!」